三日月の魚 俺の住処は、山脈の裂け目の谷の上、人間が足を踏み入れるのも難しい森の奥にある。一人 きりで住んでいたから、人間や、他の怪物に姿を見られることもなかった。いつからだったろうな、俺が、狼たちとも、人間たちとも離れて暮らすようになった のは。別に理由はない、ふと思い立って、狼たちの群れから抜け出した。だれも追ってくるものはないし、寂しさも感じはしなかった。そこにはただ自由だけが あった。自分だけの世界を感じながら、なんとなく、その場所に住処を作り、なんとなく、その場所に居座り、なんとなく、その場所で暮らした。まるで天井か ら下界を覗くかのようだった。全てが小さく見えた。だけど、哀れみを感じたり、軽蔑したり、はたまた恋しさを感じることもなかった。 ただ、世界がよく見えただけだった。 「スタンの言っていることは、よくわからないよ」 大きな切り株の上にどっかり腰掛けて、イチは興味なさそうに木の皮をかじっていた。 「お前、腹が減ってるなら、向こうに鹿の肉が残ってるぞ」 俺は食料庫に保存しておいた乾燥させた鹿の肉を裂いてイチにやった。俺にとっては十分な 量だと思って渡したが、イチにはやっぱり少なかったみたいで。最後の一口は飲み込まずにしばらく口の中で噛んでいた。 シャローたちがこの家に訪れ、色々あってイチがここに住んでから、俺は一人ではなくなっ
た。だけど、一人でいたときと、たいして変わるものはない。まあ、イチが危なっかしくて目が離せなくなってから、狼人間に戻る機会が減ってしまったってい
うのはあるけどな…。はあ…。うん。 「肉!ビミ!生がいい、ビミ!ビミ!ちょっと足りないけど。スタンは腹減ってないの?」 「そうだな…、じゃあ一緒に食べよう」 人間の外見をしたときの俺よりもずっとでかいイチが無邪気に笑って、俺も笑った。イチに 渡した分よりも、少なめに肉を切り取って食べた。 前言を撤回しよう。 ひとりでいたときより、楽しい。どうしてかな。一瞬考えたけれど、その答えは、疑問とと
もに気づかれた。 「ああ、そうか」 考えてみて、初めて気がついた。 イチには、“あれ”がなかったんだ。 こいつはここにいてここにいない。 こいつは何も持っていない。 あいつらが持っていた、何も。 ないんだ。 「なに?スタン、どうしたの?」 「うん、ちょっと、昔のことを思い出したんだ」 「昔って何?」 「昨日の海だよ。今日が昨日になると、水みたいに、形がなくなって、それが溜まって海に
なってる、それが昔だ」 「そうかあ。海かあ、俺、海に潜りたいなあ、魚沢山食べたい」 「昨日の海の魚は、目に見えるものじゃないんだ。それに、全部うまいとは限らないよ」 「なんで?」 「記憶には、楽しいことも辛いことも、色々あるからさ」 「記憶?記憶って何?それは魚?」 「うん、お前だって、お前の中に、その海と魚を持っているんだ」 「ホント?!俺の?俺だけの?」 「そう、お前だけの、海と魚だ。大事にしろよ。」 「俺の!俺の!うれしいなあ!よくわかんないけど、うれしいなあ!」 イチがまた笑う。 きっと、あんまりよくわかってないんだろうな。 正直俺もよくわからない。 「スタンの海にも魚がいて、その魚はうまかったり、まずかったりするんだね」 「…ああ、そうだな」 「スタンは今、どんな魚を食べたの?」 イチは、イチってやつは。わかっていないんだろうけど、きっとどこかではわかっているん
だろうな、って、時々思わせてくれるよ。こいつはいろんな人間の継ぎ接ぎだ。怪物と呼ばれたって、こいつは誰も恨みやしない。 「うん、昔、シャローたちやお前がここにやってくるずっと前に、俺と同じ種族の仲間が、
一度だけ来たことがあるんだ。それを思い出した。今俺が食った魚には、そういうものが詰まっているんだよ」 「その魚の中にいるのはどんな人たち?スタンみたいに狼になるの?」 「なるよ、」 「今はどうしてるの?またここへは来ないの?」 「死んだんだよ、二人とも」 「死んだ?ふうん、そっかあ」 死、という言葉を聞いても、イチにはピンとこないようだ。こいつにとって、それはたいし
た意味を持っていない。 「それは不味い魚だったの?」 「そうだな…どうかな…」 俺は、苦笑いをして、三日月を眺めた。 確か、あの日も、三日月だった。 風の冷たい夜だった。空は晴れていて、深海のような空に三日月だけが、ぽっと浮かんでい
た。俺は寝室で何をするでもなくぼうっとしていたが、遠くから血のにおいがして、それが段々とこちらに近づいてくるものだから、何かと思って家の外へ確認
しようと向かったのだ。そして、俺が家の扉を開けたとき、目の前には二人の狼男がいた。人間の姿をしていたが、においでわかった。一人はまだ子供で、狩人
風の服に緑色のキャスケットを被っていた。もう一人は、俺よりも背の高い大柄の男で、着古した黒いコートに、ぼろぼろの同じく黒い帽子を被っていた。子供
のほうは、腹から血を流していた。こいつのにおいか。苦しそうだ。腹を押さえる右手は、血でびしゃびしゃだった。そいつを男が支えている。誰かに襲われた
のだろうか。 「お前は、狼男だな」 男は切羽詰ったように言った。声に余裕がない。焦っている。人里は遠く離れているから、
そこから来たのだとしたら、相当鼻の利く奴なのだろうな。それにしても、見る限り少年の容態はひどいものだった。二人の後ろには、深い森が広がっている
が、その緑の中に、転々とした赤い血が見えた。 「ああ、お前もそうだな。種類は違うようだが…それはそうと、どうしたんだ、こいつは、
ひどい怪我じゃないか」 訳は聞かなかった。とにかく急いで自分のベッドに子供を寝かせ、救急道具を傍らに置いて
傷を確認した。 「これは…なんだ、弾丸か…なにがあったんだ」 「…撃たれたんだよ、人間に」 男は歯を食いしばりながら、子供を見つめていた。俺は子供に向き直って、止血と応急処置 を施したが、この子供はもうすぐ死ぬだろう。血を流しすぎたんだ。 狼人間は、普通の人間とは違う。弾丸を何発か食らったくらいじゃ、早々は死なない。治癒 力だって並外れているから、少しすれば、血も止まるし傷も塞がっていく。 そうならないってことは、つまり。 「銀か…」 「ああ、人間の奴ら、どこで手に入れたのか銀の弾丸で、こんな子供を撃ちやがったんだ」 治療が終わって少しして、目を閉じてぐったりと動かなかった子供が、目を開けた。目が
合った。ああ、茶色い目をしている。この子供はまだ、一度も狼男になったことがないんだ。狼人間は、生まれてしばらくの間は人間と大差のない力しか持って
いないし、満月を見ても狼になることはない。種類によって異なりはするが、大体14歳から16歳くらいの間に最初の覚醒が起こり、それによって完全な狼人間になるのだ。そして、狼人
間の瞳は、最初の色がどうあれ、総じて深紅に染まる。 「はあ、はあ、ライカン」 「リカント」 「俺は、怖い。死ぬのが怖い。なんだか寒くて眠たいんだ。痛みも感じなくなってきた」 「何を言っているんだ、リカント、お前は死んだりしないよ。痛みが引いて眠いのは、薬が
効いているからさ。死んだりしない。寒いのは、ここが山奥だからだ。あんた、毛布を貸してくれないか」 「スタンだ。持ってくるよ」 「お前は死んだりしない、リカント。さあ、毛布だよ、眠っているうちに暖かくなってくる
から。怖がることはない。すぐによくなる。」 「俺は死ぬ、ライカン。死ぬんだ。なあ、あれは銀だろう。だから止まらないんだ、血が。
そうなんだろう。銀に撃たれた狼人間の傷は治らない。俺は死ぬんだ。怖い。怖い。」 「リカント、違う、あれは、銀じゃない。銀なんて人間が手に入れられるもんか。お前はよ
くなる。なあ、そうだろうスタン。」 「ああ、大丈夫、あの弾は、銀じゃない。鉛だよ。リカント、お前が眠っている間に、傷は
きっと回復してるから。お前はまだ、一度も狼男になったことがないんだろう?」 「うん…」 「だから、沢山血が流れただけなんだ。最初は皆こういうもんなんだよ。満月で最初に狼人
間になるそのときまでは、人間みたいに傷つく…」 「…。…俺…、次の満月で、狼男になれるはずだったんだ…これじゃ俺は人間だ…。人間のまま死ぬなんて…」 リカントと呼ばれた少年は、ベッドの脇にある窓から、三日月を眺めて、笑った。 俺はリカントの額に手を当てたが、すでに死体のように冷たくなっていた。 「俺って、何色の毛の狼になるのかなって、気になってたんだよ、知りたかったなあ」 「それは、お前が自分で確かめるんだ、リカント、お前はきっと俺と同じ焦げ茶だよ」 「でも、髪の色は、俺のほうが明るいから…もしかしたら、亜麻色かも」 「ああ、それはいいな、亜麻色は珍しいから」 「…楽しみだなあ。…早く、傷が治る頃には、…。」 リカントの目は、三日月を見つめたまま光を失った。人間でも、狼人間でも、息を引き取る
瞬間は、皆同じだ。何かがなくなる。体から。 俺は彼の目を閉じ、ライカンは何も言わずに彼の冷たい左手を握り締めていた。俺は、もう
必要のなくなった救急箱を棚にしまった。寝室に二人を残して、家についた血をふき取った。 俺が一人で暮らし始めて、初めての来客だった。 朝日が昇るころ寝室に戻ると、ライカンはまだリカントの手を握っていた。昨晩と姿勢が変
わっていないようだった。 「そろそろ、埋めてやろう。大事な仲間だったのはわかるが…」 「悪い…迷惑かけるな…こいつは俺の弟だ」 「そうだったのか」 「俺が悪いんだ。俺が。こいつを連れて、人間の町に行ったりしたのがだめだった。いや、
あいつらは人間以下だ…。まだ狼になったことのないこいつは、人間も同然だったっていうのに…」 「人間は、俺たちを恐れているんじゃないのか?」 「だから、攻撃したんだろう。俺たちは皆人間を食うと思ってやがる」 「恐怖か…」 「…。俺も、人間が怖くなってきたよ…あいつらは、俺たちが狼人間だってだけで、見境な
しに殺そうとしてくるんだ」 「お前が人間を恐れる理由がどこにある?お前は完全な狼男じゃないか、人間はお前にはか
なわないよ」 「あれは人間の皮を被った化け物どもだ」 「どういうことだ、なにがあったんだ?」 「赤頭巾だ、町には赤い頭巾を被った連中がうようよいたんだ。奴ら、俺のこの赤い目を見
てすぐに俺が狼男だと気づいて、銃を向けてきた」 「赤い頭巾…」
俺は孤立している。確かに、ライカンの言うとおりだ。俺
は、もう当事者には戻れない。もし、俺が仲間の元へ戻っていったとしても、目の前にいる一人の狼男と同じような情熱を持つことはないだろう。これから殺さ
れるであろう赤頭巾の子供も、俺には関与できない別世界の存在だ。俺は一歩下がって、二つの存在集団を見た。そうすることによって、俺はもうどちらにも加
担することはできなくなった。 ライカンが見えなくなってから、俺はリカントを火葬した。
掘り下げた土の中には、紛れもない獣の骨が残っていた。
「ライカンたちはいなかったの?」 「…きっとな。俺には、狼人間だとか、人間だとか、そうい
うのは、どうでもいいんだ」 「違いがわからないの?それなら俺と同じだね。スタンはア
ホ!ホ!」 なにがおもしろいのかけらけらと笑うイチを横目に、俺は再
び三日月を見た。 イチはきっと俺よりも自由だ。 ライカンや赤頭巾の中では、人間と狼人間は、次元の違う存在。相容れない存在。 スタンにとっては、両方とも同じ存在。それがわかってからは、「狼人間―人間」の対立と してはどちらに味方することもできなくなってどちらも裏切れなくなった。 スタンにとっては、狼人間が仲間だというわけではなく、同じ位置に立って世界を見る友人 が仲間。 ライカンたちにとっては、それでも、スタンは狼人間で、その枠から抜け出すことはできな いという考え。 スタンは枠から外れた自由な存在。自由の代わりに、自分の意思だけが存在理由。でした。 そこにもう一人自由なイチが登場し、認め合うことで存在を感じることができるようになった。イチだけじゃなくて、シャローとかジゼンとかテラとかソニィと かもそう。まあ、一段階上の次元でお仲間ができたようで。よかったね。 なーんつって。今考えた。 スタンがとっても理性的になっちゃった。概念でものを見てしまっているようだ。客観:主 観=8:2 イチはすきなものだけを守り、嫌いなものだけを壊す。客観:主観=1:9 なんというマジカロスからの派生妄想。
雰囲気で読んでください。あとがきも、主張も、その場で考えただけだから、本編に反映さ れるかどうかなんて不明ですから。
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