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あのとき 「あーあーあー」 「うるせえな」
ブレインはガタガタと忙しなく家の中を行き来している。棚を開けたり、クローゼットをかき回してみたり。そうして同じように自室も引っ掻き回す。ブレインの部屋には精密な機械が所狭しと並んでいる。あそこのスイッチを入れたり切ったり、こっちのレバーを上げたり下げたり。だが、それでもストレンジの叫びが部屋の中にまで響いている。苦痛に叫ぶわけではなく、腹に力を込めてもいない。ただひたすら、何かをかき消すためだけの覇気のない声だった。声にもならない、音だった。それがヒンチクリフの中に、ブレインたちの部屋に満ちていた。
「ああ、あの声。
あれを聞いているとこっちまで何をすべきか分からなくなってくる。」
「それは意図かもしれないね」
ブレインの部屋の扉を少しだけ開けて、ラックが首を覗かせていた。いつからそこにいたのかは分からない。だが、ブレインには驚くことではない。ブレインにしろ、ラックにしろ、ストレンジにしろ、彼らは同じ水脈から水を得ている。ブレインがラックを意識する少し前に、ラックの存在がブレインの中で大きくなっているのを無意識に気づいていた。それだけのことだった。
ストレンジの声は、ラックにとっても悩みの種のようだった。落ち着いて本を読むこともできない。そしてストレンジが叫びだすとき、ラックが持っている本はストレンジもブレインも好まない類のものだった。もしかしたらそのせいかもな、と、ブレインは思う。が、ブレインがしたのは、本から目を逸らすだけことだった。
「早いとこ、緊急回避スイッチを見つけないと」
思い出したようにブレインは再び機械を操作し始めた。ラックは完全にブレインの部屋に潜り込み、ブレインの後ろからぶつぶつと何かを呟いている。いつも口元を隠している本は閉じられて、ラックの左手に納まっている。誰も見ていないからかもしれない。どん、どん、どん。ブレインの部屋は、狭くて、暗くて、ものが多かった。鈍く振動が響き渡り、一定間隔でなるどん、どん、という音が、ブレインを余計にいら立たせていた。
「地震とも違う。ヒンチクリフの狭い家の中が、さらに狭くなるような圧迫感を感じる。ストレンジの声が部屋の中を満たして、俺たちの息する隙も与えないような。」
「…あー、あった。これだ。」
ブレインが機械の隙間を縫って小さなボタンを押した。すると、途端に部屋の外の声が聞こえなくなった。ストレンジは落ち着いただろうか。ブレインとラックがストレンジの様子を見に行くと、ストレンジはキッチンでぼんやりと口を開けていた。
「ああ…」
萎んだ風船のように力のない声が、名残のように漏れ出ていた。ブレインはすかさず窓を開けて、新鮮な空気を取り入れた。何か冷たさがほしかった。入り込む冷やりとした外気が、キッチンに立つ三人を冷やした。三人を緩やかに繋いでいた、生ぬるい空気はなくなり、三人をバラバラにした。
「ああ、寒っ」
「コーヒーでも入れようか。」
さっきまでの、壊れた機械のようなストレンジはどこにもいなかった。ストレンジの関心はコーヒーだ。きっと尋ねたところで、記憶がないとでも言うのだろう。ラックがいれる暖かいコーヒー(インスタントだが)を飲みたいと、ブレインは思った。長い時間が経ったようだった。だが、時計を見てみれば大した時間は経っていなかった。ストレンジは時々このようになった。以前ブレインが尋ねた時は、喉の奥にある空気の塊をなんとか外に出したいのだと言った。気持ちが悪いのだと。喉の奥にあるはずなのに、外から押しつぶされるようだと言った。それが何なのかはわからない。見えるものでもない、聞こえるものとも違う。触れられることは決してないし、解決に向かう回路の上には存在していない。それがストレンジを時折落ち着かなくさせた。
「飽和、というより、崩壊だ。色々な、言葉にならない感情が、事実が、いっぺんに押し寄せて、吐き気がするんだ。放っておくとその塊は大きくなって、俺をぶち破って破壊する。そんな気がしてならない。何を考えても、よくない方へ引きずり込まれる。不安なんだ。」
不安。ブレインはその言葉がすきではなかった。その小さな言葉一つの中に、ストレンジの言いたい全て、言い切れない溢れ出るすべてが含まれているとは到底思えなかった。ブレインはヒンチクリフの適切な管理のために、ストレンジの奇行に深く触れることはしなかった。ひどいときは、ブレインの部屋をめちゃくちゃにしようと角材を持って入ってこようとしたこともある。その時はブレインもラックも慌てた。そしてラックがよく回る舌で命がどうとか、傷がどうとか、血がどうとか、ヒンチクリフの事を考えろだとか、あれやこれや滂沱の言葉を浴びせかけ、その内にブレインがスイッチを見つけたのだった。緊急回避スイッチの存在に気づいてからは、多少はましになった。ボタンを押せばストレンジはそれから解放されて大人しくなる。ブレインにとっては、それだけで十分だった。
ラックがどう思っているかは、ブレインの知るところではなかった。ただ、ストレンジがあの状態の時は、ラックもどこか落ち着かない様子だった。何せお得意の言葉を遮られるのだ。あの状態の時ばかりは、ラックの言葉はすべて、ストレンジにとっては毒になった。だからストレンジは無意味な言葉で、音で、振動で、すべてを流して口から吐き出そうとした。異常だから毒になるのか、正しく毒であるのか、それは誰にも分らなかった。
スイッチは、その時々で場所を変える。まるでエストの部屋の入り口のようだった。形も毎度異なる。ただ、ブレインには、見るだけでそれがそのスイッチであることがわかった。今回のように人差し指一つで押せるものもあれば、ドンッと体中を使ってぶつかって、ようやく押せるものもあった。
今回もブレインの努力によって、ヒンチクリフの中は静かになった。しんとして、各々は心なしか頭もさえるような心地がしていた。 ヒンチクリフの欠陥なのだろうか。ラックが言うのをストレンジはコーヒーを喉に流し込みながら聞いた。誰にも言ったことはないが、あの状態の時、ラックの近くには居たくなかった。声も聞きたくなかった。ラックの言葉は、まるで喉の奥に使える塊が、もっと尖って硬くなったもののようにストレンジにぶつかった。ストレンジにとって、それは何の役にも立たないものだった。それどころか、ぶつかればぶつかるほどストレンジの喉の奥のふくらみは膨張して、頭をくらくらとさせた。その状態でい続けたらどうなるのか、ストレンジには想像もできなかった。ストレンジの出す声で、振動で、ブレインの部屋はぐちゃぐちゃになってしまうかもしれない。精々そのくらいだった。
ラックが持っていた本は、ラックが暇つぶしに本棚を眺めているときに目に入ったものだった。気になりだすと、頭から離れず、どうしても取ってしまった。捨てようと思って捨ててみても、いつの間にか元の場所に戻っていた。二人を脅かすこの本を、ラックもすきではなかった。そして、ストレンジの奇行をどうにかする一番いい方法は、ブレインの緊急回避スイッチではなく、自分がそれを言葉に押し込めてしまえばいいことも、ラックにはわかっていた。だが、それが成功したことは一度もなかった。成功する兆しも、今のところない。自分がどんな形でそれを表したとしても、実際のそれを前にした時、まるで違うものだと言うことがわかるだけだった。
キッチンは静かだ。めいめいコーヒーを飲み終えると、何もなかったかのようにそれぞれの部屋に戻った。
------------------------------------ 2021/02/24 きっとそこに「存在」があるのだと思っている。 緊急回避スイッチは、肉体による防御反応のようなものだろうと思う。 |