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少
年がオルゴールを手にするまでには、数百年以上の時が経っていた。木
彫りの箱には温かみのあるつやがあった。それは多くの人間の手に渡り、そして手放されてきた。最初は漁師が子供のために遠方の地から持ち帰った。彼は旅先
の劇場でその箱を手にした。漁師にはそれがなんであるのかわからなかった。大きな漁師の手には小さすぎるその小さな箱を、彼は開くことができなかった。そ
れでも丁寧に装飾のされた木箱を子供は気に入り、漁師もそれで満足だった。次に手にしたのは、時計職人だった。骨董屋で安売りに出されていた古めかしい小
箱に目を惹かれた。骨董屋は、先日古い友人から譲り受けたのだと言った。そして、今まで誰一人としてそれを開けたことがないのだと言った。時計職人は三
オールでそれを買った。彼は三日三晩を費やして箱を開けようと試みたが、結局開けることができなかった。その翌日、手間のかかる依頼が入ったのを境に、彼
は小箱を段々と意識しなくなっていった。その次に手に入れたのは、酒場の店主だった。仕入れの帰りに、彼はよく通る木の下に腰かけた。ちょうど右手をつい
たところに、木箱は捨てられていた。彼はそれが開かないのをしると、店のカウンターの見やすい位置にそれを置いた。この箱を開けられた者には百オール、一
回一アルガドと銘打って。数夜の内に店主はひと儲けをした。中には箱ごと破壊しようとする者もあったが、大槌で叩いても、ナイフを突き立てようとしても、
木箱の模様が傷つくことはなかった。ある時酒場を訪れた旅人が、一アルガドを巻き上げられたことに腹を立て、「それには魔術が使われている」と言った。不
安はみるみるうちに客の間に広がり、賭けに参加するものはいなくなった。店主も段々にその箱が不気味に思えてきて、次の日川に捨ててしまった。オルゴール
は長い間川の中に沈んでいた。晴れた日に野菜を洗いに川べりに来た村娘が偶然にそれを見つけた。苔の一つもついていない美しい模様のついた木箱を、少女は
気に入った。少女は箱が開かないと知りながらも、大切に箱を飾っていた。少女が大人になったころ、村は街になっていた。地主に重い税をかけられ、彼女は家
の多くのものを手放さなければならなくなった。
少
年は、彼女の街から、遠く離れた海岸の街に住んでいた。少年の家も彼女の家と変わらずに貧しかった。少年や彼女だけではなく、街のすべての者が貧しかっ
た。住人のほとんどが、自らの財産を売らなければ生活できないほどだった。だが街の誰一人として買える者もいないので、住民は危険と知りながらも街の外ま
で出かけていかなければならなかった。少年は母親に、どうにか手に入れた金を渡された。奪われないようにしっかりと握りしめながら、街で唯一食べ物を売っ
ている地主の家へ向かっていた。生産するのは農民だったが、彼らの作ったものはすべて地主の倉庫に吸い取られた。偶然に来ていた、彼女の街の行商に目を留
めなければ、少年は母親に叱られることもなかったし、今でも貧しく慎ましく生きていたことだろう。 少年は、商人が
並べた見たことのないガラクタを眺めた。娯楽を知らない少年にとって、役に立たないそれらは多少の煤も含めて輝いて見えた。そして、熟考の末しっくりと手
に収まる木箱と、握りしめたアルガド銀貨とを交換した。少年がパンを持って帰ってくるとばかり思っていた母親は、少年に銀貨を持たせたことを後悔した。隣
街に行商に行った父親が帰ってきたらなんと言うか、母親には悪い想像しかできなかった。生まれたばかりの娘を泣き止ませることもできずにいた彼女は、少年
の頭を叩いて、抑え込んでいた感情を爆発させてしまった。少年は泣きながら家を飛び出し、街の外れの丘で気の済むまで涙を流した。 少年はそれでも木箱を大切に抱えていた。貧しい我が家に帰る気にはならなかった。少年は行商人のところへ行ったが、彼らはすでにいなかった。彼らが街に帰った時、箱を手放した女性は、一枚の銀貨を手にして溜息をついた。 少年は木の上に登るのがすきだった。できるだけ大きな木の上がすきだった。彼は街の中心の古い大木が特に気に入っていた。そこにいれば誰にも邪魔されずに静かに過ごせたし、街の汚れた空気も気にならなかった。触り心地のよい木箱を摩りながら少年は呟いた。
「この箱が魔法の箱だったらいいのに。」
しかし、箱はやはり、ただの箱をしていた。奇跡は起こらなかった。少年はため息をついた。奇跡的に、箱を手放した女性と同じ頃に。
音のならないオルゴール
少
年は、辺りが暗くなって木箱の模様が見えなくなると、家に帰った。我に返って自分を気遣う母親を通り過ぎて小さな自室にこもった。そして、奇跡が起こるこ
とを少しだけ願いながら眠りについた。朝目が覚めると、家の外が騒がしかった。少年が窓から顔を出すと、掲示板には、税金の引き上げを知らせる羊皮紙が貼
り出されていた。紙の前に群がっていた民衆は、それぞれが不満を吐き散らしていたが、その声に気力はなかった。誰もかれもが疲れ果てていた。誰一人とし
て、もはや払えるものを持っていなかった。少年は窓を閉めた。民衆の中に、母と父を見つけたからだった。建付けの悪い窓だったので、外のざわめきが遮断さ
れることはなかった。少年は頭の隅で「ぼくのいちばん大切なものをあげるから、どうか奇跡を」と空に縋ってみたが、声にすることはなかった。ばかげている
のは子供の少年でもわかっていた。魔法を願っていたが、魔法を信じてはいなかった。だから、最初の瞬間は、それが魔法なのか奇跡なのか、現実の事実なのか
さえも、少年にはわからなかった。
「本当に大切なものをくれるのかい?」
誰もいないはず
の部屋から声がした。少年は驚いて息を詰まらせた。声は、少年の背中の側から聞こえた。振り返ると見知らぬ男が壁にもたれ掛っていた。男は派手な衣装を身
に纏い、目を覆う仮面をつけていた。右手に持ったバトンを肩に掛けていた。少年は、男がどうして、どうやってここに侵入したのか見当もつかなかった。しか
し、男がこの街の人間でないことだけはわかっていた。この男ほど陽気に笑う人間を、少年は生まれてから一度も目にしたことはなかったし、着ている服は飛び
ぬけてよい生地だというわけではないにしても、この街の人間が買えるほど安い質のものでもなかったからだ。少年が口を開く前に男がもう一度聞いた。
「本当に、奇跡の代わりに大切なものをくれるのかい。相棒?」
「え、だ、誰?」
「僕?私?僕はアルレッキーノ。さあ、僕と私のブリゲッラ。救うだなんて漠然としているね。いったいどうしてほしいんだい?」
「僕はブリゲッラなんて名前じゃないよ…もしかして、入る家を間違えたんじゃないの?」
「間違っていないよ、ブリゲッラ。僕の相棒!どう救ってほしいのさ?君の夢見る現実を言ってごらんよ!箱をくれたら、その通りにしてあげるからさ。」
少年は黙ってい
た。黙って男を眺めた。この一人の男に一体何ができるというのか。街で一番強い男でさえも、町長に買収されてしまっているというのに、その男よりも貧弱そ
うなこの男に、いったい何ができるというのか。せいぜい他人の家に音もなく侵入することぐらいではないか?少年はずいぶん以前から希望を口にすることをや
めていた。頭の中で呟いては消滅させていた。希望などというものを口にして、笑えたためしがないからだ。少年は幼い人生の中で諦めることを学んでいた。ア
ルレッキーノと名乗った男は、少年の言葉がない代わりに、少年の心に応えた。
「ふふん。僕と私の魔法を信じない程度には、絶望しているんだね、ブリゲッラ。オオ、かわいそうに!」
「それじゃあ、僕があなたを信じられるように、何か魔法を見せてよ。」
「随分ずうずうしいね。流石ブリゲッラ!魔法っていうのは、ホイホイ出せるもんじゃないんだよ。でも、君のそんなところがすきだよ。僕と私は君の望むとおりに街を救ってやろう。いいね、救うんだ。だけど、その代わり…君はその箱を僕と私にくれるんだ。」
「本当に救ってくれるなら、…考えるよ。」
少年は答えながら箱を見た。箱をぐっと握りしめる。
「救うだけでいいのかい?相棒?」
「前みたいに平和で明るい街に戻してほしいんだ。町長がいなかった頃の。」
「ふーん。じゃあ、そういうことに、しておこう。じゃあ、ねえ、だから、イエスと言っておくれよ。その箱を僕と私におくれよ。はぐらかされないよ、僕と私は。」
アルレッキーノ
は引かなかった。少年は、手元を見た。触り心地の良い小箱が収まる。箱を渡したくはなかった。折角家族分のパンと引き換えに手に入れた、大事な箱だった。
精密な模様を見ていると惹き込まれる。先ほどからこの男が執拗に箱を求めているのも不審だった。もしかしたら、少年が知らないほどに高価な価値のあるもの
なのかもしれない。少年の望みを叶えると言って、この箱を奪おうとしているだけなのかもしれない。ただの見知らぬ男と、成功するかどうかもわからない契約
をするつもりにはなれなかった。箱を開ければ、中には、それこそ、この男の力を借りなくても、町を救える何かが、入っているかもしれない。質素で小さな小
箱は、希望を押さえつけながら、希望に飢える少年に、夢を与えていた。微笑みながらアルレッキーノは待っている。少年は傷ついた。少年は彼を悲しませなけ
ればならない。しかし、それ以上に箱に取りつかれていた。少年は彼がいまだに得体のしれないことを思い出した。少年は彼を追い出さなければならない。
「…やっぱり、だめだよ、これは、ぼくの大事な箱なんだ。一生の宝ものにするって決めたんだ。今のままじゃ、あなたはただの不法侵入者だ。僕が窓を開けて父さんと母さんを呼んだら、あなたは町長に捕まって絞首刑だ。」
少年の心意とは裏腹に、アルレッキーノは笑ったままだった。
「おやおや、町長に頼るのかい、ブリゲッラ。君が奇跡を求める原因は、彼にあるというのに。」
「だって、僕はまだ子供だよ。あなたにはかなわない、箱を奪いに来た強盗さん。」
「まあ、金銭欲はあなたの役回りのはずよ、かわいい私のブリゲッラ。」
少年が瞬きすると、一瞬前に男がいた場所には、白いドレスを纏った女性が立っていた。女性は男と同じように顔を仮面で覆っていたが、仮面から見える青と緑の瞳は、少年の目から見ても、とても美しかった。少しの間、目の前の微笑みに見惚れていたが、はっと我に返った。
「…あ、あれ?アルレッキーノは?」
「ウフフ。これで信じてもらえたかしら。」
この狭い部屋
で、瞬く間に人間が出入りすることができないことは、少年でも理解できた。少年の部屋は、ベッドとサイドテーブルが大半の場所を取り、立って歩けるのは、
ベッドを半分にしたくらいの小さなスペースだけだ。少年は自分の心臓が高鳴るのを感じていた。何か言いたかった。この感情がなんなのかわからなかった。言
いたいことが沢山あったが、何を言ったらよいのかわからなかった。目の前で起きた一瞬の出来事が、少年の心に不安と歓喜の入り混じった光を与えていた。少
年は吐きたいような、泣きたいような、笑いだしたいような気持ちになりながら、言った。一言だけ。
「魔法?」
「すてきな響きね。もっと見せてあげてもいいけれど、代わりにあなたはその箱を私にくれるかしら?」
「この箱が、どうしてそんなに必要なの?」
「私たちにはとっても大切なものなのよ、ちょっと貸して…」
女性は少年から
箱を受け取ると、箱を開けて見せた。今まで誰にも開けられなかった箱を、女性は力を入れずにするりと開けた。箱には爪をかける切込みも、鍵穴もなかった。
少年が箱の中を覗くと、小さな人型の人形が収まっていた。陶器製の、柔らかいフォルムの人形で、二人の人が、踊っている場面を描いていた。小さな人形で、
顔や表情は伺えなかったが、着色された色彩や服の形は、アルレッキーノと目の前の女性に似ていた。そこに少年の期待する希望は収まってはいなかった。舞台
のような装飾が細密に施されており、小さな箱の中に一つの大きな世界が収まっているように見えた。舞台の右隅には小さな穴が開いていた。女性はどこからか
小さな金具を取り出して、すっぽりとその穴にそれをはめた。金具の先は平たく広がり、鍵のように見えた。何度か金具を回して、それを抜く。すると中央の舞
台がくるくると回り始めた。少年にはそれがオルゴールに見えたが、音が聞こえることはなかった。
「美しい音色…この音が聞きたかったのよ。」
「何も聞こえないよ。」
「私には聞こえるわ…。」
女性は懐かしそ
うに耳を傾けていた。その表情は優しさともの悲しさをたたえているように見えた。それは少年の心を突き刺した。彼女は鍵を持っていた。この箱に欠かせない
鍵だ。彼女は箱の開け方をしっており、箱は彼女のために開いた。少年にはこの箱を持つべき者が誰であるか明白に理解できた。女性から箱を返されたが、その
箱が少年の手になじむことは二度となかった。
「…わかったよ。…この街を救ってくれたら、その箱をあげる。」
「本当?うれしいわ…その言葉が聞けて。私の恋人も、きっと喜ぶわ。うふふ。そうだわ、ブリゲッラ、お礼にこれをあげるわ、私には必要ないから。」
そう言って、彼女は少年に一枚の銀貨を手渡した。
「え…アルガド!い、いいの…?」
「いいわよ。勿論。それでお母様を喜ばせてあげることね。」
「…ありがとう。アルレッキーノ。」
「私は、コロンビーナよ。それは私の恋人の名前。」
「でもあなたは…」
「うふふ。もう行かなくちゃね。パンタローネのところに行くって、アルレッキーノには内緒よ。」
「パンタ…?え?待って…何をしにいくのさ?」
「何って、奇跡よ。あなたが、望んだのよ、それだけを。」
彼女はすっと立ち上がり、扉の向こうへ音もなく消えた。パタンと静かに扉が閉まる。少年が追って扉を開けると、そこには誰もいなかった。少年の手には、一枚のアルガド銀貨が握られていた。
街
一番の大きな屋敷は、街の中心にあった。周りを高い塀で囲い、門には他の街から雇い入れた傭兵が置かれていた。街の者は許可なく門をくぐることを許されな
かった。塀の奥には整備された芝生と、緑色の屋根の大きな屋敷だった。庭は毎日整備され、屋敷は毎日掃除されており、塀の外から来た者から見ると、外の街
に比べて別世界のようだった。街から少し歩くと海が近く、街は漁業で栄えていたが、町長が変わり莫大な税を徴収させられるようになった今では、いくら毎日
たくさんの魚が獲れたからと言っても、町民は貧しいままだった。 ラ
シーンが目を覚ました時、窓からは温かい光が差していた。部屋の大きな置時計は、針を十一と示していた。遅い朝を迎えたことに気がついた。体を伸ばし、服
を着替えて自室を出た。柔らかい絨毯の敷かれた廊下を歩いて、ラバトリーへ行き、顔を洗った。顔を洗うために脱いだ上半身は鍛えられた筋肉が浮き立ち、左
肩には複雑な模様の青い刺青が彫られていた。正面の鏡には見慣れた男の顔があった。固い白髪に、顎鬚を蓄えた、老人に近いが老人と呼ぶには屈強そうな顔だ
ちをした、自分の顔が映っていた。
「今日も、男前だな。」
「旦那様。」
扉のほうから声がした。悦に浸る時間を遮られて、塵ほどの苛立ちを覚えた。顔を拭き、髪を整えるが、振り返らない。ラシーンは自分のルーチンワークの遂行を邪魔されるのが嫌いだった。扉を開けて、小間使いが入ってくる音がした。気にせずひげを整える。
「なんだ。」
「東の街のダネルから書簡が届いております。」
「またか!やつ
め、こっちから出向かんと街を渡さんつもりか?折角五体満足のままいさせてやろうと心遣ってやったのに。ああ、やつ、足が片方いかれていたな。生憎、向
かってくるならこっちも負ける気はさらさらないからな。戦うのなら剣だ!領土は力のあるものが持つべきものなのだ。そうだろう?さる偉大な闘士も言ってい
たものだ…。あんな頭でっかちの引きこもりに、東の街は統治できん。わしが持ってこそ、あの地も映えるというもんだ。なんならもっと兵を…街から兵をとっ
てもいい…。」
ラシーンは体にコロンを塗る。
「旦那様。」
「なんだ!」
「この街には兵はおりませんわ。居るのは飢えた民だけです。」
「飢えた民だろうと、飢えた犬だろうと、武器を渡せば捨て兵くらいにはなる。金さえ渡せば、従うさ。必要なら、傭兵を雇う。別の街から使えるやつを。」
ラシーンは乾いた上着を着る。
「まあ、残酷ですのね。民を持ちながら民を殺すことしかしないなんて。私ならもっと簡単にダネルの街を手に入れてみせますのに。」
「随分と驕った口ぶりだな、小間使いの分際で…ん?お前のような小間使いはいたかな。」
ラシーンが振り
返ると、扉の前には一人の女性がいた。小間使い用の質素な衣装とは異なり、大胆だが優美な白い衣装を纏った若い女性がいた。カーニバルででも見られそうな
派手なドレスだったが、女性は屋敷に溶け込んでいた。顔を覆う半仮面は、女性の素顔を一層妖美に見せるのに役立っていた。女性は恭しくドレスをつまみなが
らお辞儀をした。
「今日から、こちらで働くことになりましたの。コロンビーナと言いますわ。旦那様。お見知りおきを。うふふ。小鳩のようなお顔。驚いていらっしゃるのね。なんなら、推薦状もお見せいたしますわ。」
「…いや、その必要はない。それより、お前、コロンビーナ?お前はどうやってダネルの街を落とせるというのだ?」
ラシーンは、い
つの間にかコロンビーナの隣に立って背筋を伸ばしていた。腰につけた短剣の柄に手をやりながら、考える風にひげを触り、胸を張った。実際、ラシーンは、コ
ロンビーナの話に興味を持っていた。ダネルとの抗争は長い間続いていた。お互いにお互いの街を欲しがり、会えば猛犬のごとく対立した。見栄を張るために、
民から税を巻き上げて立派な屋敷を建てた。対抗するために、ほかの街から兵を雇い入れて、屋敷の敷地に置いた。宝物も美術品もかき集めて、内装も豪華に整
えた。ラシーンの街は漁業で栄えたが、ダネルの街は高地にあり、農作物がよく取れた。互いの街が互いに持たない利を生んだため、互いの街が輝いて見えた。
もともと二人とも、領土を広げることを良しとしていたため、兵士上がりで町長になってからも、街の民に目を向けることはなかった。勢力の拡大のためには、
小さきものの犠牲は厭わないし、金は力へつぎ込むべきだった。
「ラシーンさま、あなたはお強いですし、お顔も端正ですし、頭脳明晰と存じますわ。」
「ふふん。」
「それなのに、民から財を巻き上げるだけでは、ニンジンの皮を捨てるようなものですわ。あれもガチョウにやれば、冬には美味なシチューが食べられます。」
「今、シチューが食べたいね。」
「うふふ。この時期のシチューは格別ですわ。すべて私にお任せ下されば、あなたはテーブルで待っているだけでよいのです。」
「なるほど、それで?」
「簡単に申しま
すと…ダネルの頭はそこそこ良いかもしれませんが、彼一人の力はそうでもございませんわね。そこを利用するのですわ。民衆はダネルの暴政に疲弊しておりま
す。彼の民衆をすべてこちらに引き込めば、ダネルは孤立無援、あなたの得意とする“力”で東の街を奪うことができます。」
「向こうの民衆をこちらにか…。俺も、家の野菜を耕す時が来たということかな。」
「お上手ですわ、ラシーン様。」
「ふふん。しかし、そのためには金が要るのではないか、少なくない量の。そして、時間が。」
「ご心配には及びませんわ。すべて私にお任せ下さいな。」
ラシーンはひげ
をいじり、少しの間思案した。ちらりと、コロンビーナと目を合わせると、彼女はにこりと微笑んだ。その顔には余裕すら伺える。ラシーンには、彼女の意図す
るところが見えなかったが、きっと彼女には壮大なヴィジョンがあるのだと考えた。不安のない目は彼を安心させた。彼が今まで見てきた女性はすべて、彼を見
るとその風貌と権力とに怯えた表情を見せた。無垢な子供も親の影響を受けて自分を怪物でも見るかのような目で見てきた。しかし、目の前の女性は違った。柔
らかく微笑み、落ち着いている。物怖じせず語り、自分に尽くそうとしている。
「…いいだろう。すべて、お前に任せよう。しかし、お前、コロンビーナ?小間使いがなぜここまで主人に肩入れするんだ?望みは何だ、お前のための金か?」
「私、お金には興味がありませんわ。すべて、“この街”の一層の発展のため…。この街で生まれたからには、町長のラシーン様に尽くすのが町民の務めというものですわ。」
「まったく、よ
ろしい。お前は町民の鏡だな。他の奴らも見習ってほしいもんだ…飯がないだの税が重いだの…毎日毎日、文句ばかり垂れて。誰のおかげで家を持てていると
思っているのか。すべて俺が奴らに土地を貸してやっているからだ。俺の土地でとれたものを、俺が管理して何が悪い。気に食わないのなら、出てゆけばよいの
さ。他に借りる宛があればの話だが…それにしても、俺の街にこんなに美しい女性がいたとは知らなかったな。」
「うふふ。うれしいですわ。ラシーン様にそう言って頂けて。」
「東の街の件は任せたぞ。」
コロンビーナは、たたえた微笑みを一層強めた。
東
の街は高台の上にあり、山を削って街が作られていた。街のもっとも高い位置に、ダネルの屋敷はあった。質素だが、強固な城壁が作られていた。住民がまだ従
順に町長を信じていたころに作らせたものだった。屋敷の一室では、ダネルが、顔の前に手を組んで唸っていた。無礼にも屋敷に押し入ってきた派手な服の男
が、無礼にも軽快に自分の部屋に侵入し、無礼にも帽子も仮面も取らず、まるで友人に話すかのように気軽に、酒の席での冗談のような壮大で穴だらけな計画を
持ち掛けてきたのだった。 ダネルは尊大
だったが、節度を持っていた。町民を町長らしい落ち着きが必要であることを知っていた。興奮して我を忘れるとどうなるかは、使えなくなった自分の片足が
語っている。彼は、机の中に短剣が忍ばせてあるのを確認した後、目の前の不審者の話を聞くことにした。なるべく相手に興味を持つそぶりを見せるように、声
を大きくした。
「それは、本当か、アルレッキーノ。」
「ええ、僕に任せて頂ければ、西の街はすぐに旦那の街になりますよ。近いうちにね。いや、これは本当に名案ですよ、旦那。」
「お前の話に
は、根拠がない。信頼に足る根拠が。奴の屋敷は厳重な警備で固められている。お前ひとりでどうしてラシーンの寝室に侵入して、やつの喉首を掻っ切るという
んだ。そんなひょろひょろの体で、あのラシーンを抑えられるとは到底思えないな。私の足が自由に動かせていたころ、私でさえ一戦交えて互角だったのだ
ぞ。」
「僕の仲間が、
ラシーンの街に潜入しています。彼女からの情報と、僕らの頭で、力しか能のないラシーンの街を奪ってやるんですよ。無駄な汗をかくのは趣味じゃない、そう
でしょう、旦那。でもこれは領土の奪い合い、あなたはいずれ戦わなくちゃならなくなる。でも、その足じゃあ勝てっこない。だから、僕がラシーンの家に忍び
込んで、夜のうちにそっと彼を海に放り投げてくると言っているんです。柔らかい毛布にくるんでいけば、彼もベッドの中だって安心しますよ。」
「さっきはお前、おびき出して魔物の餌にすると言わなかったか……。」
「ええ?そりゃ旦那の聞き間違いですよ、僕はラシーンの頭を一発殴って、無垢な子供の心に戻してやろうって言ったんですよ。」
「本当のことだけ言わないのなら、お前の舌を切ってやるぞ。」
「いやだな、僕は嘘なんかつきませんよ。たくさんのアイデアがあるだけです。」
アルレッキーノは、ダネルの書斎を歩き回り、壁際に置いてある背の低い本棚に腰かけた。ダネルは不快に感じたが、黙ってアルレッキーノの話を聞いた。
「旦那も、ラ
シーンも、協力という言葉を否定したがる。ああ、批判しているんじゃないですよ。そんなに険しい顔をしないで。旦那方の考え方は正しい。二つの街があり、
それぞれ別の特産を持つ。だが、頭が二ついがみ合っている。それじゃ、目の前のご馳走をお預け食らうようなもんです。ねえ、そう思うでしょ?思いません
か?生きるために欲しいってのに、高い金を払えと言ってくるのさ。命の価値を金で図ろうとする。同じ人間だってのに、助け合うってことをしらんのさ、ラ
シーンの奴は。僕たちは大分譲歩していますよねえ?とにかく、東も西も、頭のよい旦那が統治すれば、人間生きるために必要なものがすべて一つの街だけで賄
え、民衆もわざわざ魔物のいる街の外へ出なくたって済むってわけです。ね?旦那も同じように考えていると思うんですが。」
「そういうことに、しておいてもいいが、話が長いな。」
「まだ、一分し
か話してませんぜ。僕はしゃべるのが好きなんです。どうしても、長くなってしまうんですよ。それでね、ラシーンの奴を追い出して、旦那の街の誰かを向こう
の街の町長にする。傀儡って言うんですか?そして、欲しいものがあれば、その町長に言いつけて送らせる…。」
「そうか、お前の望みはそれなのか。下僕から、西の街の長に成り上がろうと…。」
「違いますよ。僕は今のまんまで大満足です。美しい恋人もいます。僕は金には興味がないんです。」
「では何のために、わざわざ私の所へ来たんだ?お前には何の得もない。」
「この街に生まれたんで、ピンときたアイデアを旦那に伝えに来ただけですよ。」
「つくづく信用できないな。この街の住人リストは持っているが、お前の名前は見たことがない。」
「ああ、間違え
ました。僕、この街に住もうと思って、数日前に来たんですよ。憧れの街だったもので。果実に目がなくてね。もうすっかり、この街の住人の気分になっちまっ
て。でもそしたら、西の街と争っていると聞く。これは何とかこの街のために一役買って、名前を売っとこうと思いましてね。」
「…じゃあ、なんだ、お前はこの計画の実行の暁に、この街の居住権を欲しいということか。」
「なんでもかん
でも、条件を付けたがるんですね、旦那。無償の愛をご存じない?でもまあ、そういうことにしといて下さいよ。僕は役に立ちますぜ。ラシーンさえ追い出せれ
ば、西の土地も税もみんな旦那のものです。西の民も、ラシーンのやりすぎから解放されて、きっと素敵な街になります。ね、そう思うでしょ?思わない?あな
たはラシーンの暴政から西の街の民を救おうとしているんですよね?」
「まあ、あいつさえいなければ、民衆なんて烏合の衆と同じ、御すのも簡単だからな。」
ダネルは街の民
のことなど全く考えていなかった。ただ、欲しかったのは土地と魚で、そのための生産手段としてほんの少し頭の片隅に街の民がいただけだった。しかし、アル
レッキーノは知らない。全く街の外から来て、ダネルの心の内を性善説的に見ているようだった。ダネルとしては好都合だった。調子に乗ったこいつを利用し
て、ラシーンの街を簡単に手に入れられるのなら、それに越したことはない。それに、アルレッキーノは、金に興味がないときている。
「そうそう、旦那にとって悪いことはひとっつもないんですよ。あ、そうだ、まあ、僕がこの本棚に座ったことは悪かったかもしれませんが…。」
「わかっていたなら、さっさと退け。」
アルレッキーノ
は身軽に立ち上がった。本棚の上の置物がずれる。足取りは軽く、持っているバトンをくるくると回す。色とりどりのつぎはぎ服は、シンプルに整えられたダネ
ルの部屋には似つかわしくなく派手だった。目が痛い。軽快に移動するアルレッキーノは、足の悪いダネルにとって不愉快だった。アルレッキーノは構わず続け
た。
「ラシーンを追
い出すのは僕がやりますよ。僕のほうは動くのが得意なんでね。嫌味じゃないですよ。ほんと、僕にかかればちょろいもんですって。ああ…なにか、保険が欲し
そうな顔ですね?いいですよ…それじゃ、このバトンをお渡ししておきますよ。こう見えても、なかなか高価なものなんです。それ、僕の全財産と言ったところ
ですかね、今のところ。軽業で生計を立てているんで、手に入れた金はすぐに使ってしまって、手元にはないんですよ。」
ダネルが問う前
に、アルレッキーノは答えを吐いた。ダネルはアルレッキーノを信用しなかったが、手渡されたバトンは見た目以上にずっしりと重く、高価な素材でできてい
た。たとえこの計画が嘘っぱちだったとしても、それに代わる代償として十分であると判断できた。彼は一瞬追憶した。一昔前、ダネルが町長になるずっと以前
は、ラシーンと肩を並べるほどの戦いの腕前を持っていた。しかし、魔物との戦いで足を痛めてからは、一線を退き、自らの頭脳と言葉を使い、周囲の人間を動
かすことで財を築いた。ラシーンの街も、簡単に手に入ると思っていたが、ラシーンには、言葉で丸め込めるだけの理解力がなかった。ラシーンは街を渡さない
と決めていた。何を言っても無駄なのだ。できれば、自分の手で街を手に入れたいと思っていたが、この足では無理だった。 アルレッキーノは、軽業が得意と言っていたし、身のこなしから実際にそうであることがわかる。彼ならラシーンの街に屋敷に、簡単に侵入することができるだろう。
「…いいだろう、本当に、金は要らないんだな。私は無駄な出費をしたくない。あとから言っても出さないぞ。」
「お構いなく。旦那は椅子に座っているだけでいい。今まで通りにね。」
「…西の街と東
の街は、お互いに半月のようなものだ。一つになれば他の遠くの街に行くリスクも軽減できる。街同士を結ぶ道も、人間の土地として開拓していけば、安全だ。
距離もそう遠くない。ただ、海岸はあいつのもので、山が私のものであるということだが…。ラシーンも昔は強かったのかもしれないが、今はただの椅子に座っ
た老いぼれだ。土地を持つには力不足だ。土地を治める頭もない。あの街は私を必要としている。」
「全く同感ですな、町長殿。あの街はあなたにこそふさわしい。」
「ふん、所詮奴にあの街は荷が重いのさ。これからは私が二つの街を率いていく…。お前の力には期待しているぞ。アルレッキーノ。」
アルレッキーノは「臆病なカピターノ、一線退いて捻くれた」と茶化したくなったが、黙っておいた。箱と喜劇のために、たまには真面目な振りをしなくちゃね。代わりに口元を釣り上げてダネルと握手した。半ば無理矢理に。
「その手首の刺青、かっこいいですね。」
少
年は固いベッドに寝転がり、部屋の天井を眺めていた。アルレッキーノが消えてからまだ一時間しかたっていない。少年の手は震えていた。アルレッキーノの鮮
やかな洋服が目に焼き付いて離れない。コロンビーナの柔らかい声色が耳から失せない。あれが本当の出来事だったのか、少年は記憶を疑った。しかし、蓋の開
いたオルゴールが、あれが現実であると示していた。ゆっくりと回り続けている。少年には、あの一人か二人かわからない彼らだけで、本当に街を救えるのか、
少年にはわからなかった。救うとしても、どうやって…。
「それは、案外簡単そうだよ。ブリゲッラ。」
「あ、アルレッキーノ!」
アルレッキーノが再び音もなく少年の前に現れた。彼は、開いた窓の縁に腰かけていた。風の通りが遮られて、部屋が少し暖かくなった。最初に来た時に持っていたバトンがない代わりに、今度は帽子をくるくると回していた。
「彼らはヒルトリウと同じ、過去から生きる地上の民だ。その子孫たち。でも時が経って少しは柔らかくなっている。彼らは単純だからね。」
「え?」
「彼らは野蛮で強欲、戦うのがだいすきな連中さ。そりゃあこんなところでくすぶっていちゃ、鬱憤もたまるね。人間の真似事をしても、本性は変わらない。」
「何を言っているの?」
「彼らも、壊れた世界で生きづらくなっている可哀想な民衆なんだよ。記憶が失せて、生き方を忘れた。民族的に絶対悪ってわけじゃない。ただ、生き方に反するところで生きると、うまくいかないだけなんだ。」
「よくわからないけど、僕に何かできることある?」
「もちろん、相棒だからね。ブリゲッラ。これから、僕と私が戻るまで、このオルゴールを鳴らし続けていてほしい。」
「これを?」
「そう、簡単だろ?少しの間、ネジを回し続けるだけでいい。それが僕と私の力になるんだ。」
「そうなんだ…。わかった。やってみるよ。」
「頼もしいね。ほんとに頼むよ。ブリゲッラは金に目がないから。目が移ろわれちゃたまらない。」
アルレッキーノは帽子をかぶりなおして、口元だけでにやりと笑った。座ったまま窓の外へと体を傾けた。重力が彼を引っ張って、少年の視界から消えた。少年は慌てて窓枠の外を見渡したが、窓の外には誰もいなかった。閑散とした灰色の街並みが、静かに佇んでいた。
「誰だお前は!」
「僕が勝ったら、一つだけ言うことを聞いてくれると言いましたね。じゃ、僕についてきてください。街ではコロンビーナが東の街の住人達を集め終わっている頃です。東の街に行き、一人になったダネルと戦いに行きましょう。」
「さっき出て行ったばかりなのに、もう集めてしまったのか?東の街に行くだけで、小一時間はかかるのに。」
ラシーンには信じられなかった。アルレッキーノと街に出向くと、いつもよりも多くの住人が外に出ていた。西の街の住人が怯えた表情でラシーンを見た。ラシーンは死人のような街の住民たちを見やり、その中に見知らぬ顔があるのに気付いた。
「本当に東の街の住民が…。」
浜辺に来る前ま
で閑散としていた街は、人でいっぱいになっていた。見たことのない人々が、戸惑いながら立ち尽くしていた。洗濯物を持ったままの女性や、果物の入った籠を
持ち、今まさに果実を捥ごうと腕を伸ばしていた男性もいた。みんなぽかんと口を開け、状況を理解できていないようだった。その中に、以前見た東の街の商人
がいた。 西の街の住民はラシーンを見てひそひそと話していたが、大きな剣を持って堂々と歩いてゆくラシーンに話しかけられる者はいなかった。内心ではラシーン自身も混乱していたが、彼はそれを表に出さない。彼は誰にも止められることなく、アルレッキーノと街を出て行った。
ダ
ネルはアルレッキーノが去った後、彼が残していったバトンを確かめていた。この世に二つとない素材でできているようだった。ずっしりと重く、アルレッキー
ノと同じようにくるくると回すのは難しかった。ダネルは、アルレッキーノが腰かけたことで、位置がずれてしまった置物を直すために、立ち上がろうとした。
利き手側にある杖を手に取ろうとしたが、手は杖にぶつかり、乾いた音を立てて倒れた。
「くそ。」
デスクに手をつ
いて立とうとしたが、片足の痛みがひどく、床に膝をついてしまった。みじめな気分だった。昔は、戦渦を馬のように駆けることができたというのに。自分の足
を食いちぎった魔物の顔さえ見えなかった。戦いに戦い抜いて守った街は今では自分を暴君と恐れる。血生臭い死闘を称えるものはいない。みじめな気分だっ
た。幸い、誰もこの書斎に入ることはできない。今日の例外は除いて。ダネルは杖の代わりに手元にあったバトンを使って立ち上がった。何とか椅子に座りなお
した。同時に、書斎の扉を叩く音がした。
「ダネル様、小間使いでございます。」
「扉の鍵は開いている。入れ。」
扉を開けて入ってきた声の主は、白い衣装の女性だった。ダネルは、アルレッキーノの言っていた仲間が彼女であると悟った。派手な衣装もそうだが、何より素顔を隠した仮面がそっくりだった。
「何の用だ。アルレッキーノはいないぞ。」
「御用はあなたにございますのよ、ダネル様。わたくし、コロンビーナと申しますわ。お見知りおきを。」
媚びるような声色が癪に障った。ダネルは目を逸らして、窓の外を眺めた。遠くに海が見える。
「用件は何だ。」
「あなたの望みを叶えて差し上げますのよ。自分の手でラシーンを打ち負かすと…。」
「自分の手でね…。お前も私を茶化しに来たのか。生憎、ここは誰でも入れるようにはしていない。町長にも威厳が必要なのでね。冗談を言いに来ただけなら出て行ってもらいたい。」
「そろそろ、立てるはずですわ。」
「なんだと…?」
「心配なようでしたら、どうぞ、杖。」
ダネルは耳を
疑ったが、彼女の言葉を頭の中で反復した。意味の理解と同時に、負傷している足に違和感を覚えた。ダネルはその感覚を知っていた。コロンビーナから杖を受
け取り、もう一度足に力を込めた。先ほどは無様に倒れてしまったはずなのに、すっと立ち上がることができた。十数年ぶりの感覚に戸惑いのほうが優っていた
が、それも次第に冷めて落ち着きを取り戻した。こんなことは、あり得るはずがない。
「…これは、魔法か。お前は魔女か。」
「うふふ。私、ある方に奇跡を望まれたのですわ。それが起きただけ。私は何もしていません。」
彼女が見た目よりも狡猾だった。この足が治癒する原因は謎のままだ。もしかしたら、幻覚かもしれない。迂闊に彼女を殺せない。ダネルは内心で舌打ちした。
「…まあいい。これはいつまで続くんだ。」
「あなたが死ぬまで。」
「……。」
「とにかく、私が来たのは、ダネル様についてきて頂くためですわ。」
「どこへ…」
「ラシーンと戦
うために、西の街へ。本当はアルレッキーノがやるはずでしたが、私たち、あなたの一番幸せな方法を思いつきましたのよ。東の街の民は、西の街へ集めまし
た。そこで、あなたとラシーンが戦い、勝ったほうが両方の街を得るのです。お好きでしょ、こういうの。うずうずしてなさるでしょ?なさらない?」
「…なるほど。
確かに、それは私が望むものだ。こうして再び剣をとれるのだから…煩わしく頭を使う必要もない…。いいだろう。茶番に付き合ってやる。しかし、まさか、ラ
シーンと私を相討ちにさせようとしているんじゃないだろうな。万一私を出し抜こうとしたらこの剣でお前の首を掻っ切るぞ。」
「怖いですわあ。うふふ。」
恐れをふざける
コロンビーナの首を、本当に落としてやろうかとも考えたが、それ以上に再び機能する足に喜びを感じていた。ダネルは何度か素振り、体を動かしてみたが、体
に鈍りは全く感じなかった。短剣と長剣を取りそろえ、ダネルはコロンビーナとともに部屋の外へ出て行った。町民のいない街は、廃墟のようだった。大昔に、
死体の積まれた廃古城で魔物と戦っていた過去を思い出し、笑いだしそうだった。
街はいつにも
増して活気に満ちていた。ラシーンが街を出てから、三日が経過したが、彼が帰ってくることはなかった。その日、突然西の街に現れた東の街の人々は、少しの
混乱ののち、ぞろぞろと列をなして帰って行った。彼らが東の街に戻りついたとき、ダネルはいなかった。町民はそれから三日待ったが、ダネルが帰ってくるこ
とはなかった。 街
の人々は、今回の出来事が魔物や妖精の仕業だとか、女神ブリギッドの奇跡だとか、魔法使いの呪いだとか、すきずきに噂をしていた。二つの街の町長が消えて
から一か月が経ったころ、二人の町長が戻ってくると思うものはもう居なかった。町長に吸収された財は平等に分配され、乞食になっていた者も再び職を手にし
た。二つの街では盛んな交流が行われ、貧しかった家々からは明るい声が聞こえだした。 奇
跡を望んだ少年は、それがアルレッキーノとコロンビーナの所業だと分かっていた。少年は街を救ってほしいと願った。そうして街は救われた。しかし、少年の
もとにはいまだにアルレッキーノとコロンビーナは現れない。二人の町長がどうなったのかもわからない。もしかして、二人の町長はアルレッキーノたちに殺さ
れてしまったのかもしれないと、何度か考えた。少年の記憶の中で、二人の男女は醜く歪み始めていた。夜、小奇麗になっている子供部屋で、少年は窓縁を触
り、一か月前を思い出していた。オルゴールは今でも少年の机に置かれている。あの日から、少年はオルゴールのネジを回し続けていた。彼は持ち主を待ってい
た。しかし、いつ止めればよいかわからない行為に、少年は疲れを隠せなかった。いつもオルゴールを持ち歩き、片時も忘れることを許されず、宝物として手元
に置いた小さな小箱は、今では忌まわしいものとなってしまった。あと一日したら、やめてしまおうと、少年は考えていた。一か月経っても暴君たちは戻ってこ
ない。街はすっかり平和になり、税におびえることも、貧困にあえぐこともなくなった。町長を忘れ、街は明るかった。少年だけが暗い顔をしていた。少年はた
め息をついて、満月の月夜を眺めた。悪魔と愚かな契約をして、代償として終わりの見えない不安だけが残されたのだと思い始めていた。少年は奇跡とはもっと
気持ちのよいものかと思っていたが、それは幻影だったのだと理解し始めていた。 あと五分で今日
が終わる。少年は、オルゴールを、日付の変わる瞬間に止めることにした。オルゴールが止まったら、何が起こるのか、少年には想像できない。それでも、少年
は苦痛から解放されたかった。かち、かち、かち、と、時計の秒針が十二に近づき、真上をさした。音のならないオルゴールは、静かに動きを止めた。少年は額
の汗をぬぐい、初めて自分が大量の冷や汗を流していたことに気づいた。その後、十五分ほど、オルゴールの前で硬直していたが、少年が頭の中で巡らせてい
た、おぞましい、いかなる変化も起こらなかった。少年も段々と落ち着きを取り戻した。
「僕、何をやっていたんだろ…。」
「あなたは奇跡を望んだだけよ、ブリゲッラ。」
「コロンビーナ!」
聞き覚えのある声にとっさに振り返ると、そこには一か月前と同じ姿をしたコロンビーナが立っていた。一か月前と変わらず、柔らかく微笑み、月夜に照らされたその姿は輝いていた。少年はコロンビーナの長いドレスをつかんで、夜も気にせず叫んだ。
「コロンビーナ!今までどこへ行っていたの?!町長たちは?!」
「あの人たちはもうここへは戻らないわ。街は、平和になったでしょ?」
悪びれもせずコロンビーナは帽子を弄る。彼女は整えられた自分の爪を見ながらうっとりしている。少年は焦る。
「いなくなったって…もしかして、ころ…」
「違うわ。あの人たちは、別の所へ行ったの。ここじゃないところへ。あの人たちはきっと、もういくらお金を積まれても戻ってこないわ。」
「どういうこと…」
「あの人たちは、いる世界を間違えたの。だから街に不和をきたしたのよ。あの人たちは、あの人たちにとって幸せな世界に行った。私は案内してあげただけ。」
コロンビーナの妖艶な微笑みが、今では恐ろしく見えた。少年の額からは再び汗が流れだす。鼓動は高まり、声は震える。
「やっぱり、ころし…」
「ああ、やはり夜はしんみりしてしまうね。僕と私はスポットライトの当たる劇場がすきさ!」
「わっ!突然変わらないでよ…!」
一か月前と同じように、コロンビーナは瞬きの内にアルレッキーノに姿を変えた。突然視界に鮮やかなつぎはぎが飛び込み、少年は目をこすった。
「コロンビーナは夜があまりすきじゃないんだ、悪いね。肌に悪いとかなんとか…いつかはフランチェスキーナになるのだから、潔く生きたらよいのにね!」
「アルレッキーノ…町長たちは、天国に行っちゃったの?それとも、もしかして、地獄?」
「仕方がないなあ。相棒は貪欲だからね。わからないかもしれないけど…本当のことを言うよ。ん?本当?まあよい。」
アルレッキーノは少年の様子を見て、大げさに両手を振って見せ、それから、許可もなく少年のベッドに寛いだ。狭い部屋でバトンをくるくると回した。
「彼らは異次元
に行ったんだ。いろんな呼び方があるけど…それが一番わかりやすいね。別の世界さ。昔大きな事故があってね…僕と私もびっくりしたね、その時は。流石に。
その時の事故でいろんなところにひびが入って入り口ができた。異次元っていうのは、まあ、その入り口から入る小さな部屋みたいなものなんだけど…。で、僕
らは一か月、彼らにちょうどよい広さの部屋を探してやったってわけだ。戦いがすきな彼らだから、ちゃんと当時の世界が残っているところをね…苦労したよ。
流石の僕と私も、そこまで見る目は持っていないから。それで、丁度ついさっき、見つけたってわけだ。その間、もちろん、彼らには幻を見てもらっていたよ。
君が、僕の忠実な相棒でよかった、ブリゲッラ。長い時間をかけすぎてしまった。僕らも、もう君がオルゴールのネジを回すのをやめてしまうのではないかと、
少しハラハラした。僕と私らしくなくね。もしかして、君、プルチネッラだったりして?」
「…よく、わかんないけど、でもそれ、ほんとの世界じゃないんでしょ、この世界じゃない。現実じゃない。夢みたいな世界で、彼らは幸せなの…?」
「さっき、コロンビーナが言っただろう。それぞれ住みよい世界があるんだ。それにねえ、君、今君が僕と私と話し合う、この世界を贔屓にしてはいけないよ。たとえばね、君、これが夢だと思うかい?」
「思わないよ。」
「でも、もしかしたら、夢かもしれない。君は、君が本当だと思っている、簡素だけど馴染んだこのベッドじゃなくて、歪な木を組み合わせただけの最低なベッドで寝ているかもしれない。両親もいない。君は醜悪な魔女の奴隷で、足も一本折れている。」
「そんなこと、」
「ないと思う?それでは、僕がこのバトンで三度床を叩いたら、君は目が覚める。最低だけど、ホントの現実に戻るんだ!」
「……」
少年はぎょっとしたが、考える間も与えられないまま、アルレッキーノは回していたバトンを床に降ろした。楽しそうに床を叩き出す。 こつん、こつん、あと一回。
「やめて!」
「ええ?いいのかい?まあいいか…未知を信じる、よいことだね。ブリゲッラ。つまりそういうことだ。どこがホントかなんて誰にも言えない。知ってて知らないふりをしているだけさ。彼らには、行くことができる別の場所が、あったんだよ。」
「………」
「ちょっとは
ジョークを返してくれよ。それでだ…あの二人は、地上の民と言って、大昔に暴れまわった蛮族の子孫なんだ。その血を受け継いでいる。だから、こんなところ
で、君たちの真似事をして町長なんか退屈な座に就くべきじゃなかったんだ。彼らは戦うことが本性なんだ。剣と血だけで心が満たされる。彼らも被害者なのだ
よ。彼らは君たちと同じように育って、君たちと同じように、最上の生活とは何かを学んだ。そしてそれを目指して、多くのものを犠牲にした。そしてやっとの
ことで手に入れたのに、彼らはそれで満たされなかったんだ。本当に求めているものじゃなかったから。でもそれが何なのか、彼らにもわからない。学んでこな
かったから。だから、もっと、裕福になれば、もっと土地を増やせば、…欲望がどんどん湧いて出たのさ。」
「……それで、彼らを魔物のいる別の世界に連れて行ったの?」
「二人一緒に
ね。最初は、ここで会ったが百年目とばかりに二人していがみ合っていたけれど、周りに敵がいると気付いた時の彼らの共闘は、感動ものだったね。笑いなが
ら、楽しそうに、敵をなぎ倒していた。町長なんかやっているときよりずっと生き生きしていた。自由に動く体、生きるために倒すべき敵。僕と私はそっと異次
元を後にした…。」
「か、彼らが死んでしまったらどうするの?!」
「そんなことは僕と私の知ったことではないよ、相棒。それに時の流れもあそこは歪んでいるから、疲れもそう感じてはいないんじゃないかな。」
「そんな…」
「他人の死に口を出してはいけない。人の死を決めるのはその人の行動だ。ハッピーエンドは他人には決められないよ。」
「……」
「僕と私は奇跡を求められたから、それに応えた。僕と私は、君の望んだ曖昧な奇跡のついでにみんなを幸せにした。ハッピーエンドさ。」
「……」
「あれ?浮かない顔だ。もしかして、僕と私は、君だけハッピーにし損ねてしまったかな?」
「僕、奇跡に夢でも持っていたみたいだ。町長たちが幸せて、みんなが幸せでも、なんだかもやもやが取れない…。」
「ふうむ。なるほどね、奇跡を願うのは悪いことじゃない。ただ…それを他人に求めるのは間違っているね。どんな結果になっても、君は責めることができないのだからね。」
「今みたいにね。…でも、僕が、君たちに、頼んだんだ。街が救われることを望んだ。それは叶った。僕らはもう食べるものに困らないし、重い税に苦しむこともなくなった。それは確かだ。…どんな結果でも僕は受け入れるよ。命を犠牲にした代償は払うつもりだ。」
「君は強いね。その年で代償だなんて言ってしまう。でも、彼らは別に死んじゃいないし、僕と私も君に罪の意識を残したいわけじゃ…」
「ほら、これを取りに来たんでしょう。返すよ。」
アルレッキーノ
が話し終わる前に、少年は動かなくなったオルゴールを彼に手渡した。アルレッキーノはそれを受け取ると、仮面をつけていても分かるほどにパッと表情を明る
くし、大事そうに腰につけたポーチに入れた。箱で膨れたポーチを何度か叩くと、ポーチは元の形にしぼんだ。少年はそれを横目に見ながら、ベッドの空いたス
ペースに寝そべった。
「結局、このオルゴールは何だったの?」
「ありがとう。これで、僕と私はようやく自由だ。久々に人間と話せて楽しかったよ。」
「ええ?」
「それじゃ…君から箱を受け取ってしまったし、僕と私がここにいる理由はなくなった。ブリゲッラ…お別れだ。」
スッと立ちあがったアルレッキーノの上着の裾を、少年はつかんだ。引き止められたアルレッキーノは口角を釣り上げて少年を見る。少年は目に力を込めて、仮面の奥の眼を覗こうとした。暗闇で何も見えなかったが、お互いに目が合っているのはわかった。
「これが最後なら、これだけ言わせて。僕はブリゲッラじゃない。」
「奇遇だね、実は僕もアルレッキーノじゃないんだ。それでは最後に聞こう、少年、君の名前は?」
「ヴァンだよ…ヴァン・ヘルシングっていうんだ。」
「よい名前だね。ヴァン。風が君の背を押しますように。」
「あなたは…」
少年が瞬く間
に、アルレッキーノは姿を消していた。小箱はもう、サイドテーブルの上にはない。開け放たれた窓から、冷やされた風が吹き込んでいた。人も動物も、虫も寝
静まり、静かな夜に戻っていた。月夜の光が少年を照らした。少年は、あの小箱をアルレッキーノに渡したことで、今回の一連の出来事と自分との連関が絶たれ
たことを悟った。二人は二度と現れない。彼らを呼び寄せた小箱はもうない。少年のそばに浮遊していた奇跡はもう現れない。
「…さよなら。アルレッキーノ、コロンビーナ。」
少年は、誰もいない部屋で笑った。
長くなりました。とても。 もっとおとぎ話っぽくあっさり済ませたかったのですが…。本当は、二人の町長を異次元に連れてゆく場面まで描きたかった…。でも長くなりすぎそうでしたので。 町長がいい人にさせられても、いなくなっても、死んでも、結局少年の中のもやもやは消えません。それでも最後で少年が笑えたのは、プカプカピスカが「奇跡」と少年との繋がりを絶ったからです。奇跡を望む前の最初に戻る。少年も気づかないで、町は平和だったころに戻る。 少年の名前は、
話の最後で決めました。本当はほかの名前にしようかと思っていたのですが、でもこの少年は結構強くなりそうだったので。でも少年がヘルシングだったとして
も、本編には直接かかわりません。少年は、アルレッキーノが人間とは根本的に違うものであることを理解しました。倫理的な意味で。少年は、これからは、自
分が奇跡を望む人の奇跡になろうとします。自分と同じように奇跡を望んで後悔しないように。魔法も幻覚もなしで。どこか知らないところで、主人公でもやっ
ているのではないですかね。 オルゴールは、プカプカピスカの力の源。そして束縛的な何か。プカプカピスカは閉じ込められていた。でも、少年からオルゴールを返してもらって晴れて自由の身。無敵時代突入。 思い出したことがあれば、また書きます。
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