それだけが雪を溶かした。

  バシャ、バシャ、バシャ。積もった雪と道の存在を知らせる街灯以外に何もない、見晴らしのよいほの暗い空間の中を、人々は無言で歩き続ける。空はいつだって厚い雲で覆われている。幸い風は吹いてこないが、降り止まぬ大粒の雪が、イシの身体を少しずつ麻痺させていく。彼はそれを冷たいなあと感じながら、延々と続く行列が横目に見える、錆びれた街灯の傍に座っている。雪の降る日には釣り合わないボロボロの薄着で、寒いなあと思いながら、閉じそうな瞼を少しだけ開けて、目的もなく眼前の行進を眺めている。規則正しい直線を逸脱する点。それなのに、イシを見る者は誰もいない。「与えるもの」を、彼は何も持っていないからだ。この世界では「与えるもの」がなければ認識されなかった。己の厳格さゆえに孤立し、与えることも与えられることも拒んできたイシは、いつの間にか与えられた生の返上でもって、唯一己に終わりを与えようとしていた。世界中で自分だけが心を持っているかのような感覚に浸りながら、彼は今、己の秩序のために消えかけている。


 あるとき、悴んだ手を擦りながら息を吐いていると、白い吐息が消えるのと同時に、一人の少女がイシの前に現われた。彼女の顔に表情はなく、しかしどこか否定のない顔をして人ごみの中に立ち止まっていた。彼女は暫くぼんやりとこちらを見つめていたが、彼女とイシの間を何人かの人々が横切っているうちに姿が見えなくなった。イシは少しの間その不思議な出来事で頭が一杯になったが、それは本当に少しの間だけだった。彼はそれを自分の脳さえもが麻痺したがゆえの偶然の現象で、たった一度の幻と思った。しかし、彼女はそれ以来何度もイシの前に現われた。彼女はいつも一定の距離を置いてこちらを見ていて、その姿は人ごみの中にいて目立つほどに白く、そしてこちらに来たくても来られないとでもいうような寂しげな様子だった。イシは心の中で彼女のことをユキと呼んだ。彼女がイシを見るとき、イシはきまって不安で苦しくなった。


 そうして最後にユキを見たときのこと。彼女はいつものように人ごみからイシを見ている。ふと、どうしてユキは俺を見るんだ、とイシは思った。そのとき、自分が何か大事なことを忘れているような気がして、身震いした。それと同時にユキの目から涙が流れた。その顔に、やはり表情はない。「思い出せとでもいうのか」と、イシはうんざりしながら彼女を見ていたが、気がつくと自分も彼女と同じく泣いていたことに驚いた。涙の流れた跡が冷たい。痛い。「ユキが俺を見て泣いている。それだけなのに、一体なぜ?」先を急ぐ人々がイシとユキの間を忙しなく通り過ぎて、それから一瞬の瞬きの内に、彼女は消えた。イシは最後まで涙の理由がわからなかったが、何かを思い出しそうになって怖くなり、考えるのをやめた。


 イシの靴は柔らかい布で出来ていて、雪の道を歩くことには向かない。ここが春の草原だったらな、と彼は何度も思った。また、彼の服は冬に着るには寒すぎる。ここが夏の砂浜であったらな、と彼は何度も思った。ユキが本当は何者なのか、イシは知らない。なぜ自分の前で立ち止まったのか、なぜ泣き出したのか、イシは何も知らない。しかし、ゆっくりと消える意識の中で、彼のもうすぐ静かに終わるはずだったこの時間が、冷たいだけからじわりとあたたかさを持ったのに気づいたとき、それが見知らぬ少女から与えられたものだと気づいたとき、やっぱりイシは泣いたのだった。もはやそこには、ユキに対して感じていた恐怖や不安はなく、ただ安堵だけがあった。

 

 

 

 

  青い空が広がっている。サラサラと草が触れ合う音が聞こえる。心地よい暖かさは、イシをなんだか幸せな気持ちにさせる。時折葉の間から射し込む太陽の光で、イシは目を覚ます。


「イシ、眠っていたの」


聞きなれた声の方向に、ゆっくりと顔を向ける。手を伸ばせば届く距離に、彼女はいた。


「ユキ…」


次第に明瞭になっていく視界に映ったのは、目覚める前に見たのと同じ少女。彼女は、あの時のように白く輝いてはいないし、無表情でもない。こうしてイシに近づくことも出来るし、話しかけることもできる。だが、あのときの否定のない様子は同じで、イシはなんとなく懐かしさを感じた。そしてあの時の彼女を、眼前の彼女の中に探す。しかし、探しているものは彼女の中にはないような気がした。イシは黙ったままユキを不思議そうに見つめる。彼女も黙ったまま、イシを見つめ返す。そこにはお互い、なんの感情もこもっていない。


「…。君は俺をただ見ているだけだ。」


「私は君をただ見ているだけだよ。」


「それがすごく、心地いい、泣きたくなるんだ、なんでだろう。」


「それは、不思議だね。」


彼女はそれだけ言って、他には何も言わなかった。イシはそれがうれしくて、涙を抑えることができなかった。

 

 

 

 

 

 

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学校の課題で書いた2000字以内の三人称小説。