|
先輩と後輩 俺は何のために生きているのか。 呪文のように、しがみ付く様に、その言葉にしがみついている。そして、言葉には出さずに、答えを頭に思い浮かべる。1の次は2であるように、当然の答えとして。何度も繰り返す。そうしないと忘れてしまいそうだった。積み上げられるどうでもいい仕事達に押しつぶされて、消えてなくなってしまわないように。俺は自分で自分に、餌を与えて生きながらえている。俺が潰れるほど、俺の口座には金が振り込まれる。俺は隙間の時間に、コーヒーを買ったり、食べたことのない店でランチを食べてみたり、整体へ行って疲れを取ろうとしてみたり。何もかも無為だと思う。何のための金なのだろうと思う。俺の目的を差し置いて、俺は飲み食い寝て、仕事をして、それを毎日繰り返して。疲れてベッドに倒れこんで、押し寄せる眠気に、幸せだと錯覚を起こす。
眠れることへの幸せを。
ただ生きている。これはいったい何なのだろう。俺に何の意味があるというのか。人の役に立っていると、自分を生かすためにしていると、頭を劣化させないように、ずっとフル回転させ続けるのだと。
やりたいことも、するべきことも、明日に後回し。そんな自分を無性に殺してやりたくなる。
「時々思うんです。仕事なんてものに、心身を投じるなんて全くばかげている。空の上のほうに疲れもなにも感じない自分がいて、あくせくと働きくたくたに疲れているのに毎日毎日変わらず繰り返している自分自身を眺めて、涼しい部屋でドリンクを飲みながら言うんですよ。阿呆みたいだって。そんな言葉が空から降ってきて、俺はハッと気づくんです、全てが。大事だと思っていた数々のすべてが、急に滑稽に思えてならなくなる。」
「善良な一般市民に聞かれたら、叩かれそうだな。」
「先輩の前だから言ってるんですよ。」
「俺を何だと思ってるんだ。」
そういいながらも俺を叱ることもなく、同意することもなく、ただ聞いてくれる先輩は、俺にとってはなかなか居心地のいい場所になっている。俺は疲れているんだろうか。誰かに打ち明けてしまいたいくらいに。跳ね返ってこない暗闇を求めている。そこに叫びたくて仕方がない。
言わないなら、無いのと同じだ。
「お前は何がしたかったんだ?」
「何って……」
「目的があって警察官になったんだろう。こんな風にそれを無意味だなんだというくらいだ。正義感だとか、情熱だとか、そういうものじゃないだろう。」
殺された兄の復讐。
そんなことは、たとえ先輩が一切の他人に興味がなくても言えないことだった。言えないことが、ずっと俺の中にのしかかっている。何をするにも、俺の目を前に向ける指針であり、楔だった。
「あー…、ええと。」
なにか。代わりになる答えが必要だった。この不真面目で、抜け目のない先輩の目を出し抜くための。ちょうどいい嘘が。嘘。嘘、なにか、なにか……
子供のころは何になりたかっただろう、何をしたかっただろう、兄が死ぬ前は、自分はどんな人間だったか。
「生きるためですよ。単純に。そこにたまたま選択肢として警察官という求人があって、応募したら受かった。それだけです。ただ……」
「生きるために、死ぬかもしれない職を選ぶなんて、それこそばかげているじゃないか。」
「ええ、そうなんですよね。でも何となく、俺にはちょうどいいと思ったんです。人を殺せる道具を合法的に持って。職業柄恨まれて命を狙われる危険性だってある。だから、そういう場面に出くわしたとき…生きていると。感じられるんじゃないかと思って。」
素行の悪い兄ではあったが、自分には優しかった。俺は兄にあこがれていたと思う。その行為にではなく。何にも囚われない生き方に。兄になりたいとは思わなかったが。兄の死は自分の中の何かを殺した気がした。自分の中の自由が。すべてが灰色になったようだった。兄は苦しんだのか。それとも、そんなことを考える間もなく終わったのか。兄は生きていたように思う。
対して自分は。
「他にもあったんですよ、選択肢は。でも……」
行きつけのカフェがあった。気安い店主に、雰囲気のいい店内。
感じのいい本屋があった。静かで、落ち着いていて、欲しい本は大体そろっている。
体を動かすこともすきだった。球技は腕がいいと褒められた。
楽器を触るのも楽しかったし、議論をするのもすきだった。
細胞の仕組みを解き明かすのも、思考の底をのぞき込むのも、粘土で形を作るのも。
何もかもが輝いていた。けれど。
「空の上の自分がすべて。溜息一つで吹き飛ばしてしまうんですよ。」
でも、兄を殺した警官は。自由を奪った警官は。何か、得体の知れない存在だった。俺はそれを知らない。成ってみたらわかるだろうか。奪って、そこには何があるのか。
先輩は。黙って聞いていた。……あれ、聞いてるかな?メニュー表のチーズの種類で悩んでいるようにしか見えないけど。まあいいか。
「何もいらないと思ったんです。別に。自分は何にもなりたいものがない。ただ、警官というのは、人を捕まえて、殺して、一体どんな気分になるのだろうかと。気になったのかもしれません。それ一つやるために、ここにいる。それが、俺なりに、生きるということだった」
ぐっと、少しぬるくなったビールを流し込んだ。
一緒に言葉も瓦解していく。何が言いたかったのか、ぼんやりとしていく。
「それがですよ。ねえ。毎日毎日。書類とにらめっこ、どうでもいいお小言を聞かされて、俺じゃなくてもできることを押し付けられて。おばあさんの道案内だとか、部署が違うじゃないですか。電話で呼びつけられたと思ったら、しようもないスリの文句を聞かされて。これじゃあ、」
何のために生きているのかわからなくなる。
「それで、最初のあの文句につながるわけだ。」
「あ、ちゃんと聞いてたんですね。」
「お前、さっきからナメすぎじゃないか」
「別に毎日ドンパチやりたいとかそういうことじゃないんですよ。ただ、捨ててきた他の諸々と大差はなかったんだなって。じゃあ結局どうしたら、俺は生きた心地がするのか。答えは今でも出ていません。」
復讐を成し遂げたら、俺の人生は色付くのか。全て捨てて、カフェの店員にでもなっていればよかったか。心優しく、文句も湧かない善良な人間になれただろうか。
先輩は結局、チェダーを頼んだ。
ついでに俺はナッツを頼んだ。
「意味を感じなくても、持続はしないとなりませんから。とりあえず疲れたら寝て、腹が減ったら食べます。でも、他にやりたいこと、まあ…あればという話ですが(見つかってないことにする)、それを成してしまった後、どうしたらいいのだろうと考えることもあります。」
ハアと、先輩はため息をつきながら笑ったようだった。酔ったのかな。先輩に目をやるが、そこにはいつもと変わらない顔色の悪い草臥れた無表情があるだけだった。
「ルカ。お前という奴は、やはりとんでもなく前向きなんだ。そのやりたいこととやらが、難なく成功すると思っている。」
まあ頑張るといい。
先輩は皿にチェダーを残したまま席を立った。そういえば。
「先輩はどうして警察官に?」
「単純なことさ。他人の生きがいを守る仕事をしていれば、生きているように見えるだろう。」
「あー。先輩。ブルーノ。俺が警官を続けているのはもしかしたら貴方のお陰かもしれません。」
貴方はちっとも警官らしくない。警官の皮を被っている。
もし。もしこの人が兄を殺した警官だったら。
この人を殺すとき、この人に殺されるとき、何かわかるだろうか。
「褒めても奢ってはやらんぞ」
「ハハ」
そう言って眉間に皺を寄せる姿は、至って普通の人間の皮をしていた。
------------------------------------
20220530 |