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落ちることには変わりがないのだから
「お前は過去に戻りたいと思ったことはあるか?」
「なんだよ突然」
イリヤが備え付けのサーバーからコーヒーを淹れて飲もうとした瞬間だった。休憩室に先に入ってコーヒーを飲み終えていたロジオンは、窓から差し込む日差しを眩しそうに見つめていた。独り言の延長線のようだった。
「お前は、過去に戻りたいのか?ロジオン。」
「あの頃はよかったと思うことはあるだろ。お前にだって。」
「なんだ、今が嫌になったのか?」
「今というより……」
思い出したくないこと、気にかけたくないこと、考えたくないこと。それらすべてを投げ出してしまいたい。あの頃ならば、こんなことに煩わされることはなかった。逃げてしまいたいのだ、今この現在の思考から。現実から。
「呑気にレポートの調べ物をしていた頃が懐かしい。研究に没頭していた頃は大変だったがたのしかった。解剖の実習だって、その片づけだって。夢があったし、未来に期待もしていた。」
「今は期待外れで、がっかりだって?」
「そういうわけじゃない。今だって充実しているさ。だけど、失敗もある。その失敗の中には、あとを引きずるものがある。お前にはわからないかもしれないが、手術が失敗して患者を救えなかった時の後悔は……」
「はは。」
イリヤが笑い、ロジオンは言葉を切った。ロジオンの目の前にいるイリヤという男は、入院患者が亡くなれば悲しそうに振舞い、遺族にも同情的な態度をして見せる。だが、それは全て上面に過ぎなかった。この男は、映画を見て培った演技を真似ているだけなのだ。それでも仕事ができているので文句は言わなかった。その時その瞬間が、正しい儀式でもって滞りなく遂行されればいいのだ。どこもかしこもそうだった。泣いている人間がいれば慰める。退院を喜ぶ患者がいれば、一緒になって喜ぶ。すべてが儀式。公式。1+1=2という、単純な計算を永遠に繰り返している。人間はそんなに単純ではないとロジオンは思っていたが、イリヤを前にすると、人間というものがうすら寒く白けたものに思えるのだった。
ロジオンは、自分が見透かされているような心地になった。現に、自分が口にした言葉は、その場を濁すようなものだった。 “嘘”だ。 患者を救えなかった時、確かに後悔や不甲斐なさを感じたけれど、執刀医としてその後悔を感情的に引きずることはなかった。忘れたいのはもっと別のことだ。イリヤはそれに気づいている。
「…お前さ、イリヤ。役者になろうと思ったことはないのか?」
「は?…ないな。俺は見てるだけで十分だ。演技がしたいわけじゃない。リアルな演出に感情移入して、心を揺さぶられたいだけなんだ。感動を得たい。でもなんで、急に?」
「いいや。」
目の前で毎日起こる生死のドラマには感動がないのか?ロジオンはため息をつくしかなかった。イリヤはのんびりとソファに座ってコーヒーを啜っている。忘れてしまいたいことは、既にロジオンの頭の隅からは見えなくなっていた。今はただ、目の前のやる気のない麻酔医への呆れだけだった。気晴らしにはなった。時折顔を見せる「過去に戻りたい病」は、今日の所は退散したようだ。 ロジオンが休憩室を出ようと、ドアノブに手を伸ばしたときだった。
「俺は、過去に戻りたいと思ったことなんてないな。」
ふと思い出したように、イリヤが言った。
「そうなのか?映画の影響を受けたとか言って、そういうこと考えるのすきそうだと思ってた」
「過去なんて、ないようなものだろ。過去に戻った自分は、その時の今を生きる自分でしかない。どうせ同じ過ちを繰り返す。今より何も知らない。自由もない。それに比べて今は全てが自由だろう。金もある。自分で選択ができるんだ。リアルだろう。過去に食べたボルシチは二度と味わえない。今食べたいと思ったピロシキを、帰りに買って食う現実のほうが何倍だっていい。あの時見られなかった映画が、今は見られる。過去は今の自分の救いにはならない。」
「思考の逃げ道くらいにはなってくれるだろ。お前、ファンタジーには興味なかったっけ」
「ファンタジーはたのしいけど、魔法で何でも解決は俺のこのみの展開じゃないんだな」
「そういうもんか。」
「過ぎ去ったもの、とりかえしのつかないこと、それらを今どうにかしようなんて考えても無理な話だ。それを踏み固めて、その上を歩いていくしかない。どんなにどうしようもないことでも、やっちまったことでも、その後のことを考えるのが今の俺たちがするべきことだろ。」
「お前が前向きなことをいうなんて、気持ちが悪いな」
「前向きなんじゃねえよ。現実的なだけさ。」
フフンと得意げにイリヤが笑う。うざい。これもどこかの”お話”の受け売りだったりするのだろうか。それとも経験則か。でもまあ確かに、過去に戻って同じ経験を繰り返すなんてまっぴらだな。記憶があってもなくても。過ぎ去ったことに何度安堵したことか。俺はやり遂げるしかないんだ。今を。
気づくとロジオンは、自身の問題を処理すべきタスクの一つとして捉えられそうな気がしていた。一つ一つのやるべきことが、頭の中で組み立てられていく。
「お前に救われるなんて思わなかったな」
「俺はいつでもお前の味方だぜ、ロジオン」
コーヒーを飲み終えたイリヤは、にこりと胡散臭く笑って紙カップをゴミ箱に捨てた。 その台詞はどこかで聞いたことがある。きっと映画だ。俺を何に見立てているのか知らないが、コイツが役に酔っている間は信用してもいいだろう。この男が金銭や、ほかの何かしらの欲に目がくらむことはないと思うが、いつかコイツが悪役に感化されてそんな風にならないとも限らない。
ロジオンとイリヤは休憩室を後にした。 その後はまるで見知らぬ他人のように、別々の廊下へ消えていった。
―――
執刀医ロジオンと麻酔医イリヤの話。ロジオンには隠したいことがある。イリヤはそれに気づいているのかいないのか……。 前は大学2年に戻りたい気持ちが強かったけど、最近は戻りたくないなと思うようになってきた。 |