泥沼



色々なものをつまみ食いして、嫌な記憶ばかり思い出しては一日の終わりを憂鬱にして、思い出してばかりいるから、そのことばかりが頭について、見てくれまでもその想起を形にしたかのようになっていく。まるで怪物のようだと思う。それでいて、殺す力もなく、人を不快にさせる程度の牙しか持たない。極彩色の烏にさえ劣る。

自分がどうしようもなく嫌いだ。

俺が他人にどう見えているのか気になって仕方がない。気疲れして、脳の限界までいくともはや何も考えたくなくなる。瞬間まで自分を苛んでいたはずの諸々はもうそこにはなくて、ただ、疲れと、後味の悪さが残る。

自分の気に食わないところを一つ一つ論って、全部並べて、一つずつどうにかしたいと思うこともあるけれど、並べることが一向に終わらず途方に暮れる。

やりたいことも、ほしい使命も、なにもない。だからか自分にばかり目が向かう。何もないことに、その都度気づくだけの日々だった。果たして俺は何になりたいのか。答えがない。何かになりたいと、答えを求められるのが苦痛でしかなかった。なんだって、少しはすきで、多少きらいで、面倒くさくて、部屋でコーヒーを啜るより興味がなかった。

偉人の言葉を都合よく解釈して、俺は部屋に閉じこもる。「使命」も、「やりたいこと」も、すべては自己欺瞞だ。暇と退屈の成し得る、人間自身から染み出す毒だ。この部屋にいれば安全なんだ。ここにいれば、俺は誰とも関わらずに済む。新しい苦痛は生まれないのだ。

違う。

扉の向こうで、きっと俺を批判している。俺は出来損ないで、どうしようもない穀潰しで、ここにさえいる資格がないのだと。居心地が悪い。出ていくことすらできない。出ていけば、新しい不安が俺を蝕む。何もできないと罵られ、馬鹿にされ、指をさされる。笑顔の裏でどんなことを考えているか知れない。扉の向こうの顔でさえ、俺を腫れ物のように扱い、時には思い通りにしようと叱りつけ、様子を窺うように柔らかい声で語りかけてくる。何もかも気持ちが悪かった。俺がどう思われているのか、考えたくもなかった。足が竦んで、扉を開けることができない。何もしたくない。ただただ眠っていたかった。俺の意思などどこかへやってしまって、夢の中をただ眺めているだけで十分だ。夢すら見なくたっていい。暗闇の中で、ずっと何もしないでいられたら。溶けて、消えてしまえたら。ただ一つ、やりたいことがあるとしたらそれだった。あとは全て暇つぶしに過ぎない。そうだろう。

俺は怖い。今日までのどこかで、きっと首の皮一枚まで切断されているんだ。毎日ずっと痛い。だから、薬を飲むのは当然だろう。痛みを止めなきゃ眠ることもできない。忘れたい。今までも、これからのことも、全部、何も考えたくないんだ。なのに生きていることが邪魔をする。生きているから、寝たら起きなくちゃならないし、食べなくちゃいけないし、それらのために、他人と会わなければならない。部屋の中でさえ、自由はないんだ。熱中できる何か、忘れるための何かを求めていた。引き出しの銃を持ち出して、銃声も気にならない森の奥で、ささやかに拵えた的に当てていた。他にやることもない(本当は山積みだ。色々な遅れを取り戻すためには。)から、真ん中に当てることだって簡単にできるようになった。ただそれさえ、続けていくためには弾を手に入れなければならないし、銃の手入れをしなければならなかった。競うなんてもってのほかだった。それを避けて避けて、避けた結果がこの様なのだから。

少し忘れては思い出し、何もないから、気を反らすこともできず、胃をキリキリと痛め、眠りにつくこともままならない。不安が動悸になって俺を寝かせない。そうして気づけは夜は朝になっていて、気づけば夕方になっている。まるで朝日のような、地獄のような夕方だった。


「アーサーァアアァァ」


「なんだよ……」


ノックもせずに部屋に入ってきやがって。


「うわ、昨日寝られませんでしたって顔してるね。」


「昨日寝られませんでした。」


ピースはいつもこの調子だ。俺のことなど気にも留めない。俺もひとのことは言えないが、自分勝手だ。こいつは俺が本当に寝てても起こしてくるんだ。


「それはそうとアーサー、お菓子食べる?麓の街で野菜売りから貰ったんだけど。」


「何?」


「アルファホレス。ついでにコーヒーも買ってきたよ。冷めたけど。」


「じゃあ貰う。」


アルファホレスはクッキーサンドのようなものだ。クッキーの間に甘いキャラメルソースが挟まっている。すきでもきらいでもないが、時々コーヒー片手に無性に食いたくなることはある。甘いから、ブラックコーヒーで中和する。そうして、胃に落とし込む。俺は本当にこの菓子がすきなんだろうかとも思うけど、最初の一口はまあまあ美味しいと思う。ピースは俺と違って活発だから、麓の街で色々とやっている。何をしているのかは知らない。興味もない。ただ、いつもニコニコヘラヘラとしているのが癪に障ることはあった。俺は一つもたのしくないのに、呑気にしやがってと思う。俺は毎日地獄にいるような気分だっていうのに、お前は随分と楽しそうだって。少し嫉妬もするが、こいつになりたいかと言われるとそんなことは全くないから、その気も失せる。だが、その思考のループも回り過ぎた。結局、俺が外に出ないからだ。俺自身のせいなのだ。俺が悪いだけだ。甘いクッキーを食べても、俺の頭はドロドロと堂々巡りを繰り返す。ただ、そうしてクッキーを前に静止している俺を見て、ある日ピースがこう言っていた。

「お前は、笑っている僕だけを見てそう思っているだけだろう。僕は部屋にいるのが耐えられないだけさ。小さな部屋の中で、ずっと何もせずに閉じこもっているのが苦痛だ。暇で退屈で、僕にはそれが耐えられないんだ。僕は、『お前は部屋の中にいる方がいい』と言われたことがあるけど、僕にはそれができなかった。でもアーサー、お前にはできる。お前がすごいと言いたいわけじゃないけどね。」

せめて嘘でもすごいって言えよ。呆れとため息とが体から出て行って、代わりに、クッキーとコーヒーが入っていった。


「相変わらず甘い。口の中がパサつく。」


そう言って俺がコーヒーを流し込むのを見ながら、ピースはコーヒーだけを飲んでいる。


「お前のは?」


「僕は腹減ってないし。アーサーが食べているのを見て、食べた気分になってるからいいよ」


「なんだそれ……」


ピースは笑いながら言った。俺を愉快な珍獣か何かとでも思ってんのか。


「アーサー、そういえば、今日会った野菜売りは、お前のことを覚えていたよ。お兄さんは元気かい、って。今度二人で来たら、野菜をオマケするって言ってた。」


「ああ、そう。で?お前はなんて答えたんだ?」


「じゃあ、今度連れてきますって言った。」


「アンタの知る"お兄さん”はもうこの世にいませんって、言ってくれてもよかったのに。」


どうせ俺に会ったら失望するに決まってるんだ。


「……ああ、思ったんだけどさ、アーサー。」


なんだよ、慰めか、お説教か。「誰もアーサーのことなんてそこまで気にしていない」だとか、「ネガティブ過ぎる」とか、頭の中で、ピースが俺にうんざりしながらこう言うんじゃないかって思考が瞬時に巡る。不安だ。次の言葉が来るまでのほんの一瞬の時間が、永遠のように感じられる。食べたクッキーの味すらもう思い出せない。喉が渇くが、コーヒーはもうすべて胃の中だった。


「僕、別に野菜すきじゃないんだよね」


「は?」


は????


「いやだから、アーサー連れて行ってまで野菜貰う必要ないなって。今思った。」


「……」


疲れる。本当に、ピースといるのは疲れる。予想が外れるんだ。いつも。こうして他愛のない話だけして去っていくこいつは、暇なんだろうと思う。じっと部屋にこもっていられないんだ。でも、丁度いいタイミングで俺の思考を中断させて、どうでもいいことに気を逸らしていくのは、上手いもんだと思う。気を遣わせているのかもしれない。それとも、俺を利用しようとしているのか。"健全な道”に引き戻そうとでもいうのか。もっとクソみたいなところまで落とそうとでもいうのか。でもこいつに、そんな目的なんてものがあるだろうか。わからない。こいつのことは、全くよくわからない。

俺の思考の渦が、止まることがないみたいに、目の前の、よく似た面のコイツのことも、わかる日なんて来ないと思う。別に、それでいいだろうと、思う。一つ、答えが出た。現状を改善することなんて全くない、どうでもいい答えだ。でも俺の中で、一つの解決として、形になった。どうせ明日にはなかったことになって、俺はまたグダグダと堂々巡りの憂鬱に悩まされるんだろうと他人事のように思ってしまうけど、でも今夜はいつもよりはましな眠りにつけそうだった。


「さて、アーサー。お菓子も食べたことだし、今日は夜更ししてブラックジャックでもやろう」


「……寝てないって言ったよな?」



いい双子の日(11/25)であることに気づいたので、穏やかな双子の話でも書くかと思った結果がこれ。しかもいい双子の日は過ぎた(2021/11/27)