カンペキの壁




あの人達はどうやってあんな風になったのだろう。


学校には、たくさんの同じ年頃の子供たちが集められていて、尊敬できる人達がいる。俺には決してできない判断を瞬時に下すし、友人たちから慕われる思慮も持ち合わせている、生きている時間は同じくらいの筈なのに、随分と違うものだと思う。俺の生きてきた時間を思い返してみても同じようになれる姿が想像できない。たとえ今、彼らのように振舞ってみても、それはどうしようもなく振りにしかならない。寧ろ滑稽なくらいだ。逆に、ひとつも尊敬できない人たちは、なぜそんな風になったのか実際のところはわからないけれど、どこか少しよくない環境であったのだろう、とか、漠然とでも簡単に想像できるような身近さがある。俺自身が、そういう尊敬できない人間だと自覚しているかだろうか。

あの素晴らしい人たちに対して、俺は一体何なのだろうと思う。彼らは人間として完成しているように見える。対して俺は未熟で、不完全で、未完成だ。そもそも、完成することなどないのかもしれないとさえ、思う。


「彼らは……彼らなりに自分が……不完全だと思っているかもしれない……。

お前にとって、優れているように……見えているだけで。比べるべくもないことだ…………」


ノエルはそんなふうに俺を慰めてくれたこともあるけど。人と比べて落ち込むというか、疑問なんだ。どうしたら、完成できるのか。どう頑張っても答えが出ない。そういうふうになりたいと、思ったことがないからだろうか。そういうふうになれたら、きっと生きやすいのだろうなと思うことはあるんだけど、俺の前には線があって、それらが全く俺には関与しない関係のないもののように思えている。

俺は、学校で勉強して、言語だとか、数学だとか、自然科学だとか、そういったものの知識は少しずつ、正しくついてきたんじゃないかとは思う。だけど、困っている人がいたらどうするか、とか、身だしなみはどうだとか、マナーはどうだとか、ほんの触りを教わった以外にそういったものへの関心は拡張されないし、自分で調べもしないからいつまで経っても大人へのなり方がよくわからないままだ。”大人”はどうやってそういったことを身に着けていったのだろう。ノエルに聞いてみたけど、あまり参考にならなかった。ノエルは医大を卒業したし、少しの間だけど医師として真っ当に生活していたこともある。そういうところはすごいと思う。でも、どうやってノエルがそういう道に進んだのか、俺はきっと、一から十まで説明してもらったところで、ノエル自身ではないから十分理解できるかどうかも微妙なところだ。ノエルは身だしなみは割としっかりしていると思う。おかげさまでそれを真似て、俺も少しはまともを装えているんじゃないかと思う。でも、ノエルがやっていないことは、俺の中でもやることにはならないし、関心事にもならない。

ノエルから得ているのは、最低限の大人の姿だ。ノエルは完璧じゃない。でも、ノエルは完璧になりたがっているように見える。そうじゃなきゃ、自分の脳に金属の棒を突き刺そうだなんてしないはずだ。

身近な大人を見て育つんだろう、子供は。学ぶんだろう、俺たちは。

素晴らしい人たちは、きっと素晴らしい大人たちに出会って、そうなりたいと思って、そう思わなくても当然のようにそうなっていったんだろう。素晴らしい人たちに出会っても、素晴らしいなと思うだけで、そうなりたいとは別に思わない俺は、そうなる方法を調べもしないし、そうでなくても気にしない。もう遅いんだろうと思う。俺の知らないうちに、俺の当然はノエルになっているんだろう。もっと早く、俺が俺であると気づく前に、もっとカンペキな大人に出会えていたら、俺はもっと変わっていたのかもしれない。でも、俺はもう。


俺は素晴らしい人たちを理解できない。

理解しようとも思っていない。

だから、素晴らしい人たちにはなれないのだ。


「ワルテは…ワルテだ。他の人々と比べても……仕方のないことだ。ワルテは、昨日、老人に道を教えていただろう。お前が出来た弟だと言いたいところだが、今のお前に必要な言葉はそうではないのだろう……。老人はお前に聞き、お前が答え、お前に礼を言って去っていった……。お前がいなければ老人はもう少しの間迷った末に……他の誰かに聞いただろう。あの瞬間あの場所にいて答えた、それだけで十分なんだ……。お前の言う、素晴らしいかどうかは問題ではない……」


ノエルはそう言っていた。正直何言ってるかよくわからなかったけど、今思い出して、俺はすっきりした気分になった。だってもう、どうしようもないことだ。小さな羨望は、まるで他人事みたいに離れたところにある。全く素晴らしくない人間が、素晴らしくなるには努力が必要なんだろう。そして、俺はそうなる必要性を感じないから、そうなる努力をしないのだ。出来た人間では決してないけど、可もなく不可もなく生きているのだから、それで十分じゃないか。素晴らしい人たちを見ると、自分が出来損なったように感じてしまうけど、俺はなるべくして今の俺になったのだろうから、それでいいんだ。それが俺が自ら選んできた最善なんだ。後悔することもあるけど、俺はそれで、学ぶことはできる。ノエルは俺を肯定してくれる。時には窘めてくれるし。いい距離感もある。いや、変か。ノエルの視覚野はちょっとおかしいときがある。まあ、とりあえず、駄目な親よりよっぽどいいってことは確かだ。


ノエルはよりよくなろうとしている。俺にはよくわからないけど。そこは素晴らしい人たちと同じだ。でも、ノエルは時々暴走したり、ちょっと抜けてたり、俺が何とかしなくちゃって、思うことが度々ある。そういう不完全なところが、なんかノエルだなあって感じで、俺は嫌いじゃない。きっと生まれた時からそこにいたからなんだろうなと思う。最初からノエルを知っているから、ノエルというのはそういうものなんだって、頭に沁みついている。知らないから、素晴らしい人たちは奇妙で、どこか、近寄りがたい感じがする。敷居が高くて。素晴らしいとは思うんだ。人として。でも、俺はきっと、不完全なノエルの言葉を信じてしまうんだろうな。


「そういうわけだから、きっと、悪いことなんだろうなとは思うんだけど、俺は俺のままでいいって思ってるんだ。」


目の前にいる、素晴らしい人は、さっきからちっとも動かない。もしかしたら、もうだめかもしれない。またやってしまった。だって手っ取り早いのは黙ってもらうことだ。素晴らしい人が、その素晴らしい倫理観で、俺たちのことに首を突っ込むから悪いんだ。でも、俺だって、よくないことだとはわかってる。やっちゃいけないとはわかってる。やりたくないとも思ってる。こんなことはしたくない。でも、


「どうせもう生きて帰すわけにはいかないから、ノエルの練習に付き合って貰ったほうが無駄がないよね。」


素晴らしい人の体が強張るのが分かった。生きていたんだ。死んだふり?動く気力もない?わからないけど。


「ノエル。いいよ。」


ノエルはいつものように、唸り声をあげる素晴らしい人の額にペンで印をつけていく。でかい釘みたいな器具と、医療用の金槌みたいなものを持って、あとはいつも通りだ。俺はあの殺人としか言えない行為から目を背ける。部屋を出て、何も聞かないように、洗面所で手を洗い、顔を洗い、すっきりとして自室に戻る。またやってしまった。罪悪感が沸々と湧き上がる。でも、いつまでも暗い気持ちでいちゃ先へ進めない。ベッドに倒れ込んで、ふと気づく。

そういえば、ノエルはあれを治療だと言っている。治療される素晴らしい人は、治療する余地のある不完全な人だったんだろうか。


「じゃあ、仕方ないか。」


自己嫌悪することが多いけど、だからといって、改善しようとしないのだからそりゃ変わらないよな。とも思う。改善しようとしないのは、自分にとって別に変わる必要がない部分だからだろう。だったらいいや。最初から正解なんて選べない。試しながら、悪いと思ったら二度としない。それだけで精一杯だ。