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ホルマリンの世界 いつものようにイリヤは珈琲を飲んでいた。目の前でコップを洗うロンメルに何かを言ってやろうと思うが、言葉にならないで消えていく。言葉はどこかへ行ってしまい、頭の中に映像だけがある。それは今日の手術の光景だったり、歩きながら見上げた空であったり、足元の枯葉だったり、屋根の上に見かけた猫だったりした。言葉にならない光景、言葉に出来なくなった光景は、外へ出るための鍵を失い、後はこの壊れてゆくしかない頭の中でゆっくりと瓦解していく。その瓦解が少しずつ漏れ出ていくのだろうか。いつか急に、パッタリと。ガラガラと音を立てて崩れて無くなる。そんな日が想像された。フッと、一息つくと、夢のような空想はどこかへ霧散した。そして、目の前の空間がはっきりと形として、意味として現れてくる。イリヤは確かに、カフェの椅子に座り、珈琲を飲み、少しの疲労を液体に溶かしていた。明瞭になった思考は、理解されるより前に言葉になって口から漏れ出る。 「削ぎ落とされて残るものは、果たして本当に俺にとって必要なものなのか。選択し続けたそれが、俺の求めたものと、どうして言えるのか。部屋から、手持ちから、昔に手に入れて大事にしていたはずのものを捨てていく。今にしてみれば、持っていても意味がなく、場所を取るだけだ。唯一無二の、持っているということ喜びさえ賞味期限切れで、残っているのは、満足していたという思考の記録だけだ。」
ロンメルの空気は少しも揺らぐことはなかった。洗い終わったコップを拭きながら、客に対する店主の応答の模範解答のような、準備された箱から珈琲豆を出すような、滞りのない答えがすぐに返ってくる。
「そのときは、きっとそれ自体というより、その満足が欲しかったんだろう。」
「形はあっても、意味がなくなってしまったのだ。きっとこれこそ俺だと思っていたものは、結局、そのときそうだった、そう見えただけで、今はそう思うこともない。これだから俺は俺を信じられないんだ。当時の俺に対する忠義だとか、罪悪感だとか、時間への対価だとか。頭の中だけでぐるぐると巡るものたちも、現実に立ち帰れば何もない。それらを持っていても、いなくても、何も変わらない。強いて言えば部屋が少し片付く。それに気づいたのは最近だ。増えていくものもあるが、減っていく方が多い。そんなことが何度もあるとだ、何かを手に入れようと思うこと自体がなくなっていく。頭の中まで空っぽになる。」
「それはさ、お前の手に入れたものがもうすでにお前の中にできてしまって、あえて外的に存在する必要がなくなったからという可能性もあるのではないかな。つまり、実質的にはお前の世界から減っていくものではない。お前は正しくそれを食べ、その身に吸収したんだ。だから、それらは、お前がその時生きていくのに必要な要素だったんだ。お前の肉体が食べ物を食べて生き長らえるように、お前の精神は、思考は、それらの要素を食べて生きているんだ。」
「なるほどそう思うと、過去にどうしても欲しくて買ったプレミアのDVDも、価値があると言えるかもしれない。」
「プレミアなら今でも価値があるだろ。」
「それもそうだった。」
はて、一体何の話をしていたのだろうか。思考を満たす珈琲の匂いと、胃を満たす液体それ自体と。イリヤはすっかり満足していた。脳がもう何も考えようとしていないことだけはわかった。言葉になる以前に、自分を取り巻くものに満たされていた。まるでホルマリン漬けのようだと思った。灰色の眼で、ぼんやりと、ガラス越しに世界を見ているような。死ぬこととは、満ちることなのだと、飛躍した思考が頭蓋を叩いて消えていった。
------------------------------------ 部屋の掃除をしていた時の思考の流れから派生。
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