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霧の君 何も何故も何処すらも、最初から彼の中にあったものです。 二人の男が舟を漕いでいる。もう随分長い間漕いでいる。いつから漕いでいたのかしらない。二人とも浮かない顔をしている。辺りは白い霧で覆われていて、互いの顔すらよく見えない。波のない水面は黒く、闇のようだ。一度落ちたら上がってはこられないだろう。ここが川なのか、海なのか、彼らにはそれすら分からなかった。ただ、黙々と岸を探して小さな小舟を漕いでいる。舟には彼ら二人しかいない。積荷は、一人の男が持っている携帯電話と方位の書いていないコンパスだけだ。彼は名前をヨシと言ったが、どうして自分がそんなものを持っているのか、彼にもわからなかった。彼の携帯電話にはたまにメールが送られてきて、彼らの進む方向を掲示する。「右に旋回。」「左に進め。」「おっと、間違えた。反対方向です。」などなど。彼らはその指示の通りに進んできたが、霧は晴れないし、岸も見えない。進んでいるのか、退いているのかさえわからない。一度だけこちらから指示の送り主たちにメールを送信したことがあったが、返信は返ってきていない。 携帯電話を持っている男、ヨシは疲れ果てていた。漕いでも漕いでも、岸は見えず、焦りと苛立ちが彼を支配していた。 (本当は、真っすぐ進みたいんだけどなあ。) メールの指示に、「真っすぐ」と表示されたことは一度もなかった。彼は真っすぐ進みたくて仕方がなかったが、そう思うたびに別の方向を指示するメールが届いた。 (真っすぐ進んだら何かあるかもしれないのに。) いつのまにか、真っすぐ進むことはヨシの夢になっていた。この霧の中では、右も左も東西南北もわからないが、ヨシは自分の進みたい真っすぐの方向だけはわかっていた。北も南も東も西も示さぬコンパスが、ひたすらに一つの方向を指していたからだ。彼の頭の中はいまや真っすぐ進むことで一杯になっていて、メールに右とか左とか書かれているのを確認しては溜息をついた。 (真っすぐ行きたい、真っすぐ行きたい、それが俺の望みなのに!) さらに彼を不安にさせたのは、少し前から携帯電話に送られてき始めた、指示以外のメールだった。そこにはいつも数字が三文字。最初は「547」とあった。次が「546」で、さらに次には「545」。これが何かのカウントダウンであると気づいたのはいつだったか、ヨシはそれがゼロになったらどうなるのだろうかと考えて、寒気がした。このカウントがゼロになる前に岸に辿り着けなかったら、どうなるのだろうかと考えて、怖くなった。ヨシと一緒に舟を漕ぐもう一人の男は名前をアシと言った。ヨシは彼にその数字の話をしたことがあった。そのとき彼は「へえ、そう。」と言っただけで、特になんともないといった風だった。ヨシは彼のその人事のような態度が気に入らなかったので、オールで何度か彼を舟から突き落とした。それでもその男はいつの間にか舟に戻っていて、文句も言わずに再び一緒に舟を漕いだ。 数字が「100」を切ったあたりで、ヨシはとうとう不安に耐えられなくなった。真っすぐ進みたいのに、どうしてもメールに従ってしまう自分にうんざりしていた。たとえメールのままに進んだとしても、岸が見える保証はない。真っすぐ進みたいという彼の夢が、誰にも知られないままゼロになってしまうかもしれないと思うと、押し込めていた虚しさと恐怖が一気に溢れだした。それはヨシの舟を漕ぐ手を休めさせる。バシャバシャという水の音がなくなって、辺りは静まりかえった。 「ああ、アシ、聞いてくれ。僕は怖いんだ。」 すると、霧の向こうから声がする。 「なにが。」 「僕は最近思うんだ。この携帯電話の指示どおりに今まで舟を進めてきたけれど、岸なんて一向に見えやしない。このメールが正しいのか、僕にはわからなくなってきた。」 「俺は、最初から信じてなんかいないよ。ヨシがその通りに進むって言うから、俺はそれに従って漕いできただけさ。」 アシの言葉はいつだってヨシにぐさりぐさりと刺さった。ヨシが何を聞いてもアシはどこか遠くを見ているような回答ばかり。まるで夢のような話ばかり、作り話を聞いているみたいだった。ヨシは彼の話を聞くといつも舟を漕ぎたくなくなった。どうしてか気分がすっかり滅入ってしまうのだ。さらに彼の温度のない語り方に、自分が否定されているような気持ちになって切なくなった。だから、ヨシはアシとあまり話したことがなかった。長い間同じ舟に乗って一緒に漕いできたけれど、ヨシにはアシのことがいまだによくわからなかった。そこがまたヨシを苛立たせて、アシを水に突き落とさせた。 「なあ、アシ、どうして君はいつもそんなに冷たいんだい。」 「それはね、ヨシが俺の話を聞いてくれないからだよ。」 「話?君は僕に話がしたかったのかい。」 「そうさ、この霧の中に入ってからずっと、あることをね…。それなのに、君は携帯電話ばっかり気にしていて、俺はいつも水の中に突き落とされているんだ。」 「あ。ごめん。」 そういえば、アシからその件について言及されたのは初めてだった。こう言っちゃなんだけど、言われて初めて彼に申し訳ないとヨシは思った。 「いや、いいさ、別に、それは…。ただ、問題は俺の話を聞いてくれないことだ。」 「それじゃあ、今聞くよ。」 『ピピピ。』 ヨシが言った途端に、着信音が響く。ヨシは無意識に確認しようとしたが、アシが力強い声で「俺の話を聞いてくれるんだろう。」と言うから、ヨシは仕方なく携帯電話を隣に置いた。 「ヨシ、俺には行きたいところがあるんだ。」 「うん。」 「それは、君の携帯の指示とは全く逆の方向なんだ。」 「…。」 「俺はね、真っすぐに進みたいんだ。本当は。そんな携帯電話なんて壊して、コンパスの示す方向へ進みたいんだ。」 「…それは、僕も同じだよ。僕もそれを君に言おうとしていたんだ。」 「じゃあ、真っすぐ進めばいいじゃないかと、俺は言いたいね。」 「それが、できないんだ。メールはいつも真っすぐと言ってくれない。」 「どうしてそれに従わなきゃならないんだ。」 「これが唯一僕らと外界を繋いでいるからじゃないか。」 「君は彼らを見たことがあるのかい?」 「いいや。」 「彼らは君を見たことがあるのかい?」 「……。いいや。」 「ヨシ、いいかい、そのメールは確かに岸の場所を教えてくれているよ。」 「えっ。やっぱりそうだったのか。しかしどうしてそんなことが君にわかるんだ?」 ヨシの質問には答えずに、アシは続ける。 「だけど、君がそこに行くことを望んでいないから、その岸が君には見えないんだ。君は今、真っすぐに進みたいと言った。それは君の意志だ。真っすぐ進めば、君に見える岸がちゃんとある。それがどんな場所かは分からないが、君の意志がメールと違う限り、君に見えるのはその岸しかないんだ。」 ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ…。立て続けにメールの受信音が聞こえる。しかしヨシは先ほどのように確認しようとはしなかった。 「ヨシ、数字のカウントがゼロになっても岸へ到達できなかったらね、俺たち死んでしまうんだ。」 「それにしては、君は随分と落ち着いているんだね。」 「俺の岸は真っすぐ行った先にあるのがわかっているからね。行こうと思えばすぐなのさ。カウントはまだ90ちょっとも残っている。あとはヨシが同意してくれるか、それだけなんだ。」 ヨシが再び携帯に目を向けると、メール受信件数は30件を越えていた。それから、ヨシは眼前にいるはずの彼を眺めるつもりで霧を見つめる。そういえばアシの声はどこかで聞いたことがあるなあと思っていると、「聞いているのか?」苛立ち気味にアシに呼びかけられたので、慌てて意識を彼の声に向けた。 「なあ、ヨシ、俺はメールの指示なんかじゃなくて、君がどっちに行きたいかが知りたいんだ。」 「そんなの、真っすぐに決まってる。それしか考えられない。」 「そうか、それは、よかった。そんなら、もう、安心だ。」 「え?なにが?」 ヨシは思わず聞き返したが、静まり返った霧の向こうから声が返ってくることは二度となかった。ヨシは立ち上がって舟の反対側に移動してみたが、そこには誰もいなかった。 「……。」 ヨシは少しの間アシがいたはずの場所に座って、ぼんやりと白い霧を目的もなく見つめる。先ほどの会話を思い出して、アシとこんなに沢山話したのは初めてだったとか、もっとはやくアシと話をしていればよかったとか考えながら、いなくなってしまったアシにもう一度「何度も突き落としてごめんな。」と謝った。そして、もう見る気も殆どなくなった携帯電話をなんとなく開いてみると、受信件数は100件にのぼっていた。最初の数件を見て、ヨシは携帯を閉じた。 「俺が行きたいのは右でも左でもない。真っすぐだ。」 受信を続ける携帯電話を、ヨシは静かに水の中へ沈めた。彼の手にはいまやあのコンパスが握られている。その指針に従って舟を漕いでしばらくすると、水面に波が出てきたのがわかった。漣の音が心地よい。頭上から暖かい光が射すのを感じた。遠くのほうで人の声が聞こえた。足音が聞こえた。近くに岸がある。 「…あ。そうか。」 少しずつ晴れてゆく霧を名残惜しく眺めていたヨシは、霧の中から聞こえたあの声が、自分の声であることを思い出した。
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2000字に収めるとか無理だった。そして力尽きたので色々あれなかんじ。 舟に乗る二人の男という設定は小学校低学年辺りで書いた授業内課題からリサイクル。ただし、二人の男が舟に乗っていたということしか覚えていない。
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